「ヘルボーイ ゴールデンアーミー」(公式サイト


映画の冒頭で映画のヒーローであるヘルボーイの出自が語られる。

それは第一作を見ていない人のためでもあるが、ヘルボーイの人となりを知る上での重要な鍵でもある。


彼は人間ではないが、しかしそんなことは一切気にしない優しい養父の元で愛されて育ったた一人息子なのだ。養母に当たる人物はいないが、彼はそれを苦にすることもなく、「女々しさ」を知ることも理解することもないままひたすらマッチョに男らしく成長したが、「優しさ」は育ての父からしっかり学び取ったのである。


しかしあんな赤くて角の生えた日本で言えば赤鬼みたいな赤ちゃんを、どうして養父は恐れることなく可愛がって育てられたのか?


答えは簡単、彼が可愛いかったから。

たとえ皮膚が赤かろうが、額にぶっとい角が生えていようが、暴れん坊だろうが、ヘルボーイ君の顔は可愛らしく(美少年を起用したキャスティング、最高!)甘えてくる仕草は子どもっぽく、素直な性格は憎めない。こんな坊やなら、父親代わりの老教授は教え育てるのが楽しくてメロメロになってしまっても無理はないだろう。


そしてまた、どう見ても血はつながってないのに自分をこんなに可愛がり愛してくれる養父を、ヘルボーイ少年も深く慕い全幅の信頼を寄せていることが手にとるようにわかる。


この11~2歳のヘルボーイ少年のエピソードは僅か数分しかないのだが、これだけでヘルボーイの心の中にある人間性がどう培われたのか全て分かってしまう。説明的セリフやナレーションなど一切なく、あるのは時系列と場所を示す字幕だけである。上手い監督の映画とはこういうものだ。


その後半世紀を過ぎ、カラダも顔もゴツくなっても、頭の中というか精神年齢はほとんど年をとっていない……それが現在のヘルボーイというわけである。


「ミスター・ビーン」について彼を演じるローワン・アトキンソンが「ビーンは(外見は中年男でも中身は)9歳の少年なんだ」とそのおかしさの秘密について語っていた。9歳の少年そのものの表情や行動を40過ぎの男がやっているから、そのギャップが笑いを生むのだと。


この「外見大人、中身は子ども」のギャップによるギャグは実はあちこちで応用されていて、「ヘルボーイ」もその一つである。「ミスター・ビーン」は、ごく普通の家庭で育った9歳の子だが、ヘルボーイの場合は特殊な環境に閉じ込められて他の子との交流の少ないまま成長した少年である。ただしそれを不憫に思う養父によって、かなり甘やかされてしまったというオマケつき。


ヘルボーイは名前の通り地獄生まれの悪魔の子というか、要するに人間ではない存在なので管理された環境下で面倒を見て貰っていたわけだが、こういう環境は普通の人間の子どもだと「病院」なのだと思う。

難病で、長期入院を余儀なくされた子ども達は、ヘルボーイに自分と似た境遇を見いだすのではないだろうか? 検査と注射と薬漬けの毎日。でも両親はいつも優しく、多分健康な子以上に大事にされている(その理由が自分が病気だからということは、子ども自身もわかっていたりする)。


そんな子ども達は病院の早い消灯のあとの長い夜を、自分達が病室を抜け出し、街に出て、思い切り力一杯羽を伸ばして遊ぶことを夢想するのだろうか? 

昼間は両親やナースやドクターがいるから動きがとれなくても、夜になれば見張りは手薄になるから隙を見て脱出できる。一人じゃつまらないから、隣の病室にいるあの子も一緒に……。見つかる前に帰って来ればいいし、見つかってもその時は素直に謝ればきっとパパやママやドクターは許してくれるんだ……。



体は大きく丈夫に育っても、ヘルボーイの行動原理は大体こんな感じなんである。とてつもない破壊行為を結果的に行ったとしても、謝れば許して貰えるんじゃないか――ヘルボーイにはどこかそう思い込んでいるフシがある。しかしそれは放任主義で育てられた甘ったれなぼっちゃんの無責任な「謝ればいいんだろ」とは根本的に異なるもので、ヘルボーイには自分自身の行動が養父の信頼を裏切っていないという自信があるからなのだ。彼にとって世の中の決まり事はどうでもいいが、だが自分を愛してくれた父親だけは決して裏切らないと決めている。その最後の一線さえ越えなければ、多分、大抵の事ならパパは許してくれるだろう。彼はそう思っているのだ。


愛と信頼には愛と信頼で応える。

その義理堅さがヘルボーイの魅力だろうか?

とにかく力が余っているので、やる事なす事はハチャメチャなのだが。



1作目ではつかみ切れていなかったヘルボーイの人物像が、2作目の彼の子ども時代のシーンを見たことで一気に焦点を結んだ感じだ。私自身は健康そのもので入院の経験などないまま大人になったので、1作目ではヘルボーイの抱える鬱屈が全く理解できないままだった。全ての面倒を見て貰える研究施設で上げ膳据え膳で暮らしているのに、何をワガママ言ってるんだって感じで。彼の現在いる場所は、彼が常に帰って来る場所なのだから刑務所ではないのだし、ましてや彼は大人なので孤児院でもない。いたれりつくせりの「家」にいて、何が不満なのだろうと思っていた。


でも、そうではなかったのだ。

あの施設は、彼にとって「家」ではかった。「家」は帰るべき場所だが、あの施設はそうではない。たまたま事情があって現在身を預けているだけの場所にすぎないのだ。それが痛い検査をする「病院」で、そして彼自身が検査を嫌がる子どもなら、彼の全ての不満や怒りは読み解ける。行動原理が分かればヘルボーイへの理解も生まれるというものだ。


ヘルボーイにとって「家」は「父」。自分を育て慈しんでくれた養父の居る場所がすなわち彼の家である。

父を亡くし、家を失い、いやいや「病院」に閉じ込められていれば、それは夜な夜な脱走してハメをはずしたくもなるだろう。彼には恋人もいるが、精神年齢が11歳ぐらいではまだまだ家庭を持って自分自身で「家」を築こうなんて発想は出てくるわけがないのである。


このようにして、映画が始まって僅か10分で「ヘルボーイ」の持つ魅力を全開させて観客の心を掴みとると、デル・トロ監督は次にそれを監督自身の映像美の中に投げ込んでくれた。「パンズ・ラビリンス」で繰り広げられたような、この世と違う異世界に広がる、醜悪の一歩手前で辛くも美に踏みとどまっている独特の映像世界。人間以外の様々な種族が闊歩し、独自の文化に基づいて生活している空間。そこに乗り込んで行く犬・猿・キジのお供を連れた桃太郎ならぬヘルボーイ(おい!)。


今回、犬・猿・キジにあたるサブキャラクター達もそれぞれ非常に魅力的で、映画を見ていても楽しさ倍増だった。2作目なのでメインキャラクターの紹介をしなくてすむため、その分敵役を掘り下げることに時間を割けて、彼らの苦悩や悲しみが伝わって来るのもよかった。ラストにはやはりどこか「パンズ・ラビリンス」を思い起こさせるシーンがあって、そのせいで作品全体が一気に深いものへと変貌を遂げたものである。


ギジェルモ・デル・トロ監督といえば、かの「ロード・オブ・ザ・リング」三部作の前作にあたる「ホビットの冒険」でメガホンをとることになっていて、どんなもんかとちょいと心配する気持ちがないでもなかったのだが、この「ヘルボーイ ゴールデンアーミー」を見た今では何の心配もなくなってしまった。これなら、安心して任せてしまって大丈夫だ。


「ホビット」が心配な人は本当に「ゴールデンアーミー」を見たらいいと思うよ♪