上記サイトには「不滅の歴史最高傑作、完全映画化」と出ておりますが、はて、何をもって「完全」というのかは異論のあるところ。
「三国志演義」には及ばないかもしれませんが、やはりとっても長い「指輪物語」(「ロード・オブ・ザ・リング」の原作)という小説がありまして、これは人に勧める時には必ずと言っていい程「序章は読み飛ばせ」と言うものです。
というのは、この小説途中でやめるのはほとんどが冒頭部分でつまずくからなのですよ。そこを乗り切って2巻目ぐらいまで読み進むと、その後はおもしろくて本を置くこともできなくなるのですが。そして最後まで読むと、不思議なことにもう一回今度は最初から楽しく読めてしまうのですよね。
思うに「三国志演義」もそういう勧められ方をするのではないかと。
これは古典として有名なので、「桃園の誓い」とか「三顧の礼」なんてのは物語読まなくても一般常識として知られていたりするわけですよ。だったら物語として一番おもしろい「赤壁」から読めとか、或いは武将として一番の男前として知られる趙雲が出てくる所から読めとか、そういう「いいとこ取り」な読み方指南があっても不思議はない。
あたしゃ全部最初から読みましたけどね。でも読み返すんだったら「三顧の礼」で諸葛孔明出てきてからにしますよ、間違いなく。
ただこのエピソードはどちらかといえば劉備の人間性=徳の高さを示しているものなので、映画として、それも劉備は脇において他の武将を主役に据えた場合には必要なくなるわけです。というのも諸葛孔明はそんなエピソードなんかなくても劉備の軍師として広く知れ渡っているからですね。
「天下
というわけで「レッドクリフ」も「三国志」も、趙雲が劉備の息子でまだ赤子である阿斗を奪還すべく獅子奮迅の働きをする「長坂の戦い」からメインの話が始まるのは偶然ではなく必然であったのでしょう。
違うのはその後。
「レッド・クリフ」では趙雲は脇役でその後はメインキャラクターの孔明(金城武)と周愉(トニー・レオン)を中心にしつつ、名のあるキャラクターは総出演の上各見せ場ありという、昔の正月映画並にサービスシーンてんこもりでその分テンポが多少緩い感じが否めなかったのだが、「三国志」の方はその後も趙雲の一人舞台でアンディ・ラウが出ずっぱりなのである。アンディ・ラウ以外はもはや誰が出ようと、それが劉備だろうが曹操だろうが孔明だろうが単なる脇役である。おかげで展開が早いのなんの。あっという間に「出師の表」。
実は「三国志」は趙雲を主人公に据えたため、一般的によく知られている「三国志演義」とは多少話が違っているのです。「演義」には出てこない曹操の孫娘を敵役に定めているのが一番の変更でしょう。どこかで女性を出さないと花がないけれど、趙雲ってそんなに浮いた話ないから。これがアンディ・ラウでなくてトニー・レオンだったらベッドシーンのサービスがあったでしょうに(「レッド・クリフ」ではしっかりある)。マギーQの孫娘役はなかなか雰囲気あってよろしかったです。
アンディ、最初は小汚い兵卒姿で登場するのですが、阿斗を奪還に行く決意を表明した際劉備に鎧兜を賜って凛々しい武者姿になるのに始まり、男を上げるに連れて見栄えもよくなっていくのですわ。とんとん拍子に出世して五虎大将軍の一人となった暁には真っ白な装束で馬を駆って現れるのですが、その時の晴れやかな笑顔のアンディの男っぷりが輝くばかりに美しいこと! 戦闘場面よりもマギーQよりも監督が一番力を入れたのがこのシーンだったのは間違いないと思います。
アンディ、この映画では女より馬の方がよく似合ってましたわ。
馬、たくさん出てきまして、どのシーンも美しく迫力あるのですが、どことなく「太王四神記」を思い出させるカメラワークというか特殊効果というか……。CGIシーンのスタッフには韓国名が多く連ねられていたので、案外同じ制作会社を使っていたのかも。馬好きにはたまりませんね♪ 一番似てるなと思ったのが、馬を乗りこなしつつ剣や槍を構えている時の腕の角度でしたが。得物が邪魔にならずかつ使いやすいように構えると、どうしてもその角度になるのかも。
剣といえば、「ウルトラヴァイオレット」でミラ・ジョボヴィッチが使ってたのと同様のデザインの剣が使われてました。ミラちゃんのよりは多少太くて短かったですが、なかなかすごい威力でした。
こういった剣や槍で人をぶった切るシーンでの血しぶきや断ち切られる人体など、リアルさと数において「13日の金曜日」なんざはるかに凌駕してましたね。この戦闘中のリアルな血しぶきのCGIって「トロイ」あたりが皮切りだったと思うんだけど、現在のはさらによくできていると思います。
さて、この作品のために創造された人物はマギーQの曹嬰(そうえい)の他にもう一人、サモ・ハンが演じた羅平安(ロー・ピンアン)がいます。サモ・ハンは、ま、今回はっきりいって見せ場というのはないんですが、それでも大変重要な役でして、それこそ「トロイ」で言ったらオデュッセウスにあたります。戦闘を通じて歴史を見つめ、それを己の言葉で物語として紡いでいく語り部の役ですね。
この羅平安は趙雲と同郷という設定で、劇中趙雲は兄と呼んでずっと慕っているのですよね♪
最後の戦にも共に出かけ、趙雲に悲劇が訪れるであろうことが予感される最後の出陣を太鼓を叩きながら見送るのですが、ラストの彼の独白が実は「三国志演義」の冒頭に書かれている詩の一節だったりします。
「白髪の漁師は川面にて秋月 春風にひたねる良き友と酒を酌み交わし古今の出来事もすべて笑い話となる」
太字の部分は字幕にも確かそのまま出ていたような……。
これ、サモ・ハンの羅平安は非常に苦々しい声で無念な思いにかられながら語っているのですよ。吐き捨てるような調子、と言っても過言ではないかも。ちょっとびっくりしました。
ちなみに「三国志演義」の著者は羅漢中とされているんです。そう、羅平安、同じ名字なんですよ。時代が違うから羅漢中を趙雲の朋輩として設定するわけにはいかないものの、ひょっとしたら羅平安は彼のご先祖様にあたる人かもしれなくて、趙雲の物語を最初に語り子々孫々伝えるよう言い残したのかもしれない、という具合に想像逞しくできるような名前の設定だと思います。
この映画での趙雲、アンディ・ラウそのままで、彼の身に帯びた悲劇性をそのまま体現しています。
自分の持ち物は何もないようなところから身を起こして栄耀栄華の一時代を築くものの、結局何も持たずに去っていく、みたいなね。「墨攻」もそんな感じでしたよ。
監督の描きたかった部分は趙雲をそういう境遇に追い込むような政治というか、下の者を手駒として人を人とも思わない使い捨て方をする上に立つ人(でなし)に対する憤懣だったような気もしますが、結局全てはアンディの美しさに収束されてしまったような。
アンディ・ラウを見ていればそれだけでいい、そんな作品と言えるでしょう。