*公式サイトのストーリーを読むと映画のあらすじがほとんど書いてありますので未見の方は御注意下さい。
「おくりびと」と言っても、この映画でサミュエル・L・ジャクソンがやってるのは葬儀会社で死者を扱うのではなく、予期されなかった死の現場を綺麗に清掃して浄めることなのだけど、その行為を通じて死者を生きていた時の姿で思い出せる形にして再び遺族に返すという点において同様なんですね。
「おくりびと」で納棺師達が厳粛な面持ちで死者に接していたように、「ザ・クリーナー」ではサミュエルが真剣そのものの表情で死者の残した血や体液その他の汚れを洗い流していきます。そうする事で、悲しみにくれる遺族が死者に別れを告げて日常に戻るための段取りをつけてあげる……仕事に臨む時の真摯な思い、精神性は共通しているのだと思います。
ただし「ザ・クリーナー」での仕事は綺麗事とは正反対のものですが。
自然死や事故死でも死後数日発見されなかった遺体のあととか、自殺や殺人のあととか、酸鼻を極める現場を丹念に洗い清めていく様子が繰り返し描写されるのですが、黙々と仕事を進めるトム・カトラー(サミュエル)の表情が言葉にされない彼の内面を雄弁に物語っています。
トムが本当に洗いたいのは自分の手。
マクベス夫人のように洗っても洗っても落ちない血のしみのついた自分の手を洗う代わりに、他人の部屋についた血を洗う。徹底的に何の痕跡も残らなくなるまで繰り返し。その現場が綺麗になったらまた次の現場で同じ事をする。
そうやって洗い続けていれば、いつかは自分の心も漂白されて真っ白になる日がくるんじゃないか……ありえないとしりつつ、そんな希望にしがみついて毎日を送る男。
そんなトムの心の中にある空洞をサミュエルはセリフで語ることなく表現してるんですね。
この映画が語る世界って、実は「フェイクシティ」のそれに酷似しているんです。
腐敗しきった世界で何とか自分の中の最後の一線だけは守ろうとして危なっかしく世渡りをする男達。出てくる登場人物はほぼ全員がそんな感じで、そして誰もキアヌのように浮いてはいません。サミュエル・L・ジャクソンやエド・ハリスはそんな世界で立ち回って違和感ない人達です。どっちも悪役も演じてるので見ている方にも免疫ができているというか。
それでも「ザ・クリーナー」の方が「フェイクシティ」より見ていても見終わってもまだ清々しいのは、サミュエルが常に真剣に清掃作業に従事しているからです。教会に行かなくなって神さえも信じなくなった男でありながら、彼の演じるトム・カトラーはその作業を通じて常に贖罪を願っているわけですよ。自分の犯した罪の重さを知りつつ、さらにその罪に問われることを心底恐れつつ、それでも罪をあがなおうとせずにはいられない……そういう人物造型なんですね。
「フェイクシティ」でのキアヌって、「無垢」なんですよ。インファント故に罪から免れている存在と申しましょうか。ただこの「無垢」ってやつは「無知」にも通じるわけで、それはさすがにこの現代社会じゃ通用しないだろ、という側面が大きかったのが「フェイクシティ」の失敗の理由ですよね。インファントな存在としてキアヌを起用したキャスティングは間違ってないんですが、そもそも「インファントな存在」なんてのを設定に持ち込んだ段階で脚本が失敗してるんです。だって、幾ら何でもあり得ないというか、不自然すぎるんだもんね。
それに比べると「ザ・クリーナー」の方がよりリアルに胸に迫ってきます。
事件をめぐる謎解きや始末の付け方、キャスティングの分かりやすさは「フェイクシティ」とそう変わらないんですが、サミュエルやエド・ハリスが演じるキャラクターの魅力が全然違う。とってつけたような動機や、はっきりと語られない過去であっても、それらが彼ら俳優の中で消化されてごく当然の帰結として行動に現れているので観客は彼らの演技に納得させられてしまうんですよね。
説明の部分って、本当に短いんですよ。
なにしろレニー・ハーリンですから。
次から次に新しいシーンを見せて観客の興味を引っ張っていくのに長けた職人監督ですからね。まず退屈はしません。
それをいつもは派手なアクションとか騒音をたてる銃撃や爆発とかショッキングな殺人現場とかで見せてくれるんですが、今回はそういうシーンがほとんどなくて地味~に展開してるのに、それでも飽きないってのが驚きでした。
目を引くシーンというのはほとんどがサミュエルが掃除に行く自殺や殺人の現場で残っているのは痕跡だけなんですよね。CSIでさえ最初は死体が転がってるというのに、この映画ではそれもなし。ただ、血しぶきの跡や荒らされた現場から状況が凄惨だったことが分かるだけ。
でもそこにサミュエルが登場すると、本当に拭われたように(実際拭っているんですが)綺麗になって、その現場が部屋となって甦るんですよ。
結局それらのシーンこそがこの映画の最大の見せ場ってことで、それ以上の目立つシーン入れなかったんでしょう。おかげで非常にまとまりのある美しい作品に仕上がっていました。地味でもおもしろく見せられるレニー・ハーリンの監督としての腕前に改めて舌を巻きましたよ。
実はレニー・ハーリンって今まで人間を描くことにはあまり興味ないんじゃないかと思っていましたが、「ロング・キス・グッドナイト」でそうだったように幼い娘がいるキャラクターは魅力的に描くんですね。今回サミュエルの役には14歳になる娘がいて、彼は結局全てを捨てて娘のためだけに生きているんです。娘に恥じない人間になるために贖罪の毎日を過ごしていると言っても過言ではない。最終的には家族が心のよりどころであるという形にストーリーが収斂していくのですが、それがとってつけたものにならないのは娘とすごすサミュエルと名付け親であるエド・ハリスが表情で何よりも雄弁にそれを語っているからです。言葉にすると安っぽくなることを、名優二人の演技で全て表現してしまう……。監督の腕前も一流じゃなければできないことだと思います。
これは単なる謎解のサスペンス映画としてスリル満点につくることもできたはずです。
でも、恐らくあえてそうしなかった。
殺人現場の痕跡で扇情的な作品にもできたし、無実の罪に陥れられそうな主人公の緊迫感をあおって手に汗握るような映画にもできたはず。
けれどそんな映画は今そこら中にたくさんあふれてるんですよ。似たようなテイストの作品をいくら作っても注目はされません。
それよりも人の心に残る作品にしたかった。
だからこそサミュエルが黙々と血を洗い流すシーンばかりをしつこいぐらいに挿入したのでしょう。
贖罪を象徴する彼の行為そのものが、観客の心からも余分なものをそぎとって、人にとって本当に大切なものは何なのかに目を向けることができるように。
ちなみに「おくりびと」では社長にあたるのがサミュエルですが、ちゃんと本木君にあたる役の登場人物もおります。この映画では脇役なんですがいい味出してて、最後まで上手く作ってるなと感心した次第です。
「ザ・クリーナー」、単館系の公開ですが、「フェイクシティ」よりずっとおもしろい作品です。レニー・ハーリンはやっぱり見逃せないわ。