梅と桜、どっちが好き? ブログネタ:梅と桜、どっちが好き? 参加中
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例えば写真を撮るとして、樹木としてのたたずまいや枝振りのおもしろさを撮るのなら梅の方が絶対おもしろいんです。花も桜ほど密生してないので、一輪一輪の可憐な様子をカメラに収められますし。

でも景色として眺めるのなら、それは桜の方が綺麗でしょう。隙間なくピンクに埋め尽くされる空間というのは桜以外には作れないような気がします。

ちなみに私は北海道出身なので、梅が咲いたから春の訪れだの入学式は桜の下でだの、そういう季節感は全く感じないんですね。私の住んでたあがりじゃ梅も桜も桃も林檎も5月の初め前後に一斉に花をつけましたから。白からピンク系の色合いの花だけでなく、黄色いレンギョウなんかも一緒に咲いてましたが、遠くに望む山は大体併置混合で白っぽいピンクに染まって見えましたっけ。秋は紅葉で赤く染まるのと好対照をなしてました。

だから実際のところ、梅も桜も桃も林檎も厳密には花の区別がつかなかったりします。木全体を覆う花の色の微妙な色合いの差で見分けてるというか、或いは木に付いてる名札で読み分けるとか(メインはこっち)、その程度です。あとは花のあとになった実がなんだったか覚えておくとか(この方法は確実)。

で、実となった時に好きなのは梅じゃなくてサクランボの方なので、どっちが好きかときかれればやはり桜に軍配をあげてしまいますね。梅の実はそのままじゃ青梅には青酸が含まれてるので危なくて食えませんが、熟して黄色になったからってそれ程積極的に食べたいわけじゃなし、やっぱりサクランボの甘酸っぱい魅力の方が強いです。

ところが、普通によく見かける桜って、サクランボ、ならないんですよね。だから子どもの頃はとっても不思議でした。どうしてこの木には実がならないんだろって。実がみのらなければ種もできないのに。

大人になってソメイヨシノは接ぎ木で増える植物だからだと知って納得しました(参考ページ )。

自力で子孫を残せない植物だから、実のためにではなく花のためにすべてのエネルギーを使い切るのがソメイヨシノの特徴なのでしょうか。

一代で終わる命だからこそ、たくさんの花を咲かせ、その美しさを人の記憶に焼き付けることで、自分自身の永遠の命を得ようというのでしょうか。
植物だって生命を持っているし、地球上の生命というのはおよそすべてDNAが突然変異を繰り返しながら複製をし続けることで命脈を保っています。その連鎖が、ソメイヨシノはその代限りで絶たれることが決まっています。いくら自分と同じ個体を自己複製することで増やしても、その個体達には未来がない……。

未来も将来もないソメイヨシノが春の盛りに狂乱したように咲き誇るのは、今を必死で生きている結果なのでしょうか。

迫り来る死に対し、生が仕掛けるせめてもの意趣返し。

いずれは誰もが死ぬ。子孫の中に己のDNAを残せる者は幸運だけれど、そうでないものももちろんいる。

けれどもDNAだけが命ではない。

自分が生きたという証を人の記憶に刻みつけることができれば、その記憶が残っている間は命の一部もまた地上に留まっていられるのではないか。

ソメイヨシノが風に吹かれて散ってゆく時の有様は、その美しさで人の魂も奪っていくかのような恐ろしささえ感じます。

そう、サクランボがならなくても、花のひとつひとつが目立たなくても、桜は、ソメイヨシノは美しい。魂を奪われるのが恐くて容易に近づくことができない程に。

「梅と桜、どっちが好き?」といった二者択一で聞かれて返事に窮するのは、「好きか?」という気軽な問いに、気軽に答えることさえはばかられる――そういう心理あったからなのでしょう。ソメイヨシノがこの世に残す美の圧倒的な迫力が他者との比較を拒む程に絶対的なものだからなのです。

桜の季節じゃない時には何故かそのことはすっかり忘れているのですが(←ダメじゃん!)。

ソメイヨシノはいつまで咲き続けることができるのか。
桜の木との長生き勝負をする羽目になりそうです。