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夜中に全ての時間がリセットされ、再び0から始まる時。

それが13日の金曜日なら、合わせ鏡の無限の回廊を通り抜けるために、悪魔がこの世に姿を現す一瞬。

この世の中にこの世ならぬものが潜んでいるかもしれないと、畏れを抱くことのできる機会。

今日が昨日になり、明日が今日になる不思議な取り決めが未だ有効であることを確認する時刻。

一日という区切りを真夜中にもってきた人間の知恵の深さに改めて気づく……ことは多分ない。


しかし忘れてはいけない。
時という概念は知識として教えられるものであることを。

太陽が昇って明るくなると、「新しい」日が来ると私達は思うが、それは「暦」があっての事である。
順序よく数字をつけられた「日」によって構成される「暦」は、数の概念がある人間が見ればいやがおうにも数が増すに従って「進む」という観念を意味づけしてしまう。数が一つ進めば、それは前進だろうから、だから次に来る日を「新しい」と感じる。やがて来る日が「新しい」からこそ、そこに希望も生まれるというものだ。

暦がなくて、毎日が同じ労働の繰り返しだったら、そこにたぶん「明日」はない。あるのは苦しい「今日」の繰り返し。夜が明けて日が暮れてまた夜が明けても、それはただの連続した時間がずっと続くだけ。


連続した時間を一定の単位で区切り、それを「一日」と数える術を生み出した古代の知恵は、たぶん人々に生きる希望を与えたのだ(それと同時に恐らくは絶望も)。

夜が明けるから、朝がくるから、新しい一日が始まるのではない。
真夜中に、太陽とは関係なく、一日が交替するように取り決めたのは、人が自然に支配されるのではなく、自分自身の時間を生きていると主張するための、古代の知恵の矜持。目に見えるものだけが全てではないのだと、他人に、そして自分に言い聞かせ、想像力を働かせ観念を生じさせるための仕掛け。

もっともそれを分かりやすくイメージさせるためには時計の発明を待たねばならなかったのだろうけれど。


私達人間は、連続する時間の中で瞬間だけを数珠つなぎにするように生きているのではない。

連続する時間を自分達の都合に合わせて区切り、名前をつけ、分類し、整理して、自分達の中に意味づける。自分達がつけた意味によって、その時間はあたかも量として測れるもののようになる。そうやって私達は自分の一生という無限の時間を短くも長くも感じながら死を迎えるその時まで生きるのだ。


自分の一生の長さは自分の主観で決まるのだ。
この先が短いと感じているならば、だから無駄にしている時間はない。

過ぎた過去を思い悩み、自分を憐れんでいたのではそこから前に進めない。
前に進みたければ、1分1秒を数え、日付が変わるその時を意識し、自分で一歩一歩を踏み出して行かなくてはならない。

明日は来る。
暦が制定されたその時から、明日という日は必ず来ることになっている。

何があろうと、明日は来る。
だから、さあ、覚悟を決めて、どうせ来る明日なら笑顔でむかえよう。
古代の科学者が、太陽にも月にも背いて決めた日付の変更時刻に感謝の念を捧げつつ。