「グラン・トリノ」がクリント・イーストウッドの演じる主役のコワルスキーが大事にしている車のことだと知った時、私の頭に浮かんだのは「ヒダルゴ」という映画の事だった。
「ヒダルゴ」、邦題は「オーシャン・オブ・ファイヤー」(公式サイト )だが、原題のヒダルゴとは主役のフランク・ホプキンスの愛馬の名前である。
ヴィゴ・モーテンセンの演じたフランクは、様々なことが自分の身に降りかかってくる間にフランクとしてのプライドをどこかに捨てざるを得なかった男だった。だが自分のプライド=自尊心を捨てきることのできなかったフランクは、それを愛馬のヒダルゴに仮託した。
彼は言う。
「なあ、あんた。俺の事なら何を言ってもいい。だが俺の馬を悪く言う奴は許さん」
と。
そしてヒダルゴを侮辱した男を殴り倒すのだ。
何か理由があって男が自分で自分を誇りに思うことができなくなった時、彼は自分自身を誇る代わりに自分が一番大事にしている物を誇りに思うようになるのだと、その時思った。「ヒダルゴ」ならば、ヒダルゴこそが傷ついたフランクの最後の拠り所であるプライド=人間としての尊厳なのである。
だから「グラン・トリノ」では車のグラン・トリノが傷つき誇りを失ったコワルスキーの最後の砦である自分のプライドにあたるのだろうと思っていた。
そしてそれは間違いではなかった。
コワルスキーは暇があれば車を磨き、ピカピカになったグラン・トリノを目を細めて眺めながらビールを飲むのが一番の楽しみだった。夜にはそれを大事にガレージに収め、盗もうとする奴は許さない。
フランクは常にヒダルゴに乗り、自分と生活を共にする彼を愛しんでいたが、同時に一緒にレースに出場する果敢さも持ち合わせていた。彼がヒダルゴに話しかけ「お前はまだ大丈夫だよな」と言う時は、実は自分自身を「まだ大丈夫だよな」と励ましているのである。
しかしコワルスキーはグラン・トリノに乗らない。
磨き上げ、眺めては悦に入るだけだ。
最初私は思っていた。
コワルスキーのプライドは取り返しのつかない程傷ついていて、それでこれ以上誰かに傷つけられるのを恐れているから、グラン・トリノをガレージから出さないのだろうと。
だが違った。
コワルスキーのプライドは取り返しがつかない程傷ついていたが、それは誰かによって傷つけられたからではなかった。
彼は自分自身を恥じるあまり、それを表に出すことができなかったのだ。
そして彼が自分自身を恥じたのは、自分が他人を傷つけたのが理由だった。
彼の心――美しいグラン・トリノ――は、だから常に他人から隠されていて、コワルスキーはそれを見られることを何よりも嫌っていたのだ。本当は輝くように美しい心を持ちながら、己の行為を恥じるあまりそれを世間から葬り去っていたコワルスキー。
彼が再びグラン・トリノを走らせる決心をした時、彼の心は何十年かぶりに外に出て羽ばたけるほど自由を感じていたのだろう。深く傷ついた心が、ようやく少しだけ癒える機会を得たのだ。
その心を守るため、彼はある行動を決意する。
その結果、グラン・トリノは長く閉じ込められていた牢獄のようなガレージから解き放たれ、美しい海辺の道を未来へと駆け抜けてゆくのだ。
コワルスキーの自由になった心そのままに。