原作は有名な児童文学らしい。出版された当時すでに子どもでなかった私には縁のない作品だったが。
とはいえ児童文学の傑作は大人になってから読んでも充分おもしろいものだ。私は大人になってから「指輪物語」を読んだせいで、児童文学である「ホビットの冒険」はさらにその後で読んだのだが、日本語訳の表現が子どもっぽい部分が気になる時期を乗り越えれば一気呵成に読み進んでしまう程おもしろい本だった。
「ガンバの冒険」に至ってはアニメの再放送を見たのがさらにその後だが、それでも図書館で借りだしたガンバシリーズは大人の鑑賞にも耐える優れた文学作品で、読み終えて真剣に感動したものだ。
でもたぶん、「西の魔女が死んだ」は子どもの内でなければ読んだところで感動はできないと思う。私自身の好みから言えば、自分が子どもの時にこの作品に出会ったとしても多分読まなかっただろう。
何故か?
理由は簡単、主人公が自分では何もしない女の子だからだ。
そりゃまあ、現代(作品が書かれたのは10年以上前だが、それでもほぼ現代)の日本では、中学生の女の子は何かを捨てる覚悟がなければ何もできない。それが現実なのはよく知っている。
しかしそれにしてもこの主人公の「まい」の何もしないぶりは相当なものである。
「魔女修行」を始めると称して早寝早起きの規則正しい生活から始めることにしたというが、それだって朝おばあちゃんに声をかけて貰って初めて起き出すのだよ? その後も全部言われたことを言われた通りにやるだけだ。自発的に物事に取り組むという意志をそもそも持たないのだ、このヒロインは。
原作は読んでいないので映画で見た分でしか分からないが、ここで語られている「魔女修行」等日常の家事の、それも「お手伝い」に過ぎない。文章でいかにヴィヴィッドに表現されていようと、映像がいかに瑞々しかろうと、映画の中で見せられている作業から伝わって来るのは「修行」という言葉から連想されるべき刻苦精励の姿ではないのだ。
それは例えば旅行会社の企画する「『赤毛のアン』の世界体験ツアー」みたいなものだ。
まいが行っている「魔女修行」は、要するに学校に行かなくなった孫娘のために優しい祖母が提供する家事手伝いに見せかけたイベントなのだ。単に「体験」としてやらせてあげているだけで、「暮らしをたてる」という観点に立てばまいの手があろうがなかろうが何の影響もないのである。いや、実際にはまいの面倒を見る分財政的にはマイナスになるのではないだろうか?
そもそもこのおばあちゃんの生活ぶり自体が曖昧なままだ。
彼女の家には電気も水道も電話もたぶんガスもある。
しかしトイレやお風呂がどうなっているのかはこの映画では描いていない。野菜と卵以外の食料品をどうやって調達しているのかも分からない。しかし使う砂糖はビニール袋に入った市販のもので、紅茶に入れるミルクは冷蔵庫から出している。思い立って夜中にクッキーを焼くことができるなら、電気かガスのオーブンだってあるのだろう。都会生活の孫娘がいちいち文句を言わないのだから、トイレは家の中にあって水洗なのだろうし入浴だって潤沢にお湯が使える便利なものに違いない。
要するにこのおばあちゃんは悠々自適の生活を送っているわけで、自分の好きなように暮らしていける財産も便利な手段も充分持っているという事になる。
だから外のかまどでお湯をわかしたり、洗濯機を使わずにたらいで洗濯したり、掃除機を使わずほうきで掃除したりするのは、それ以外の方法がないからではなくて単に彼女の趣味なのだ。趣味という言葉がふさわしくなければ、彼女が自分のしたいようにして暮らしているだけだ。彼女自身にとってはそればポリシーなのだろうが。
孫娘はそれを「体験」させてもらうわけだが、当然そこに並んでいるのは子ども向けに選定された綺麗な企画ばかりで、農作業をする上での辛い部分、汚い部分等というのは一切無しだ。精々がナメクジを見てびっくりしたり、青虫を追い払って喜んだり、その程度。鶏小屋の掃除さえやってないのではないか。
はっきり言って、水道もガスもトイレもないところでキャンプするよりずっと快適な日常生活を送りつつ、それを「魔女修行」と称しているわけである、この映画は。第一蚊にも蝿にもブヨにも悩まされないんだから、ほとんど山の中とは思えない。服装一つとっても決して野良着や作業着ではなく、古着をリフォームしての可愛いスモックやエプロンといった女の子が喜ぶアイテムで飾られているのだ。
都会の利便性はほぼそのまま、自然と共に暮らす生活の美味しい部分だけをいいとこ取りしたような生活で、しかも煩わしい人間関係が一切ないなら、それは幸せだろう。「赤毛のアン」ツアーというより「アルプスの少女ハイジ」前半体験版ゲームと言った方がより近いかもしれない。
とにかく映画で描かれているまいの日常はあまりに生活実感に乏しい。この作品は徹頭徹尾まいの視点で語られているのだが、それを上手く利用して都合の悪い部分は見せないというご都合主義も貫かれている。それは一見自給自足のような生活に見せるために生活必需品を購入する場面を出さなかったりという点に現れる。そのくせ、そこでの生活にもお金はしっかり出てくるのである。
この細部の詰めの甘さが結局この映画を全て「真似事」にしか見えなくさせているのだ。
まいのおばあちゃんがやっていることは、彼女の故郷であるイギリス的生活の導入というよりも、先頃亡くなったターシャ・テューダー(Wiki )のスローライフの真似事のように見える。だからまいがやっていることは真似事のさらに真似事である。
おままごとに毛の生えた程度の経験を仰々しく語られても、残念ながらすでに子どもでない身には共感はできない。まだその体験をしたことのない人なら憧れを抱けるかもしれないが、それこそ児童文学には古今東西のもっとすぐれた作品がごろごろ転がっているので、それらをすでに知ってしまった者にとっては「西の魔女が死んだ」等どこが良いのか理解ができないだろう。
恐らくこの作品は、日本という国でほぼ同時代に子どもとして生活した人にしか共感を得ることができないと思う。これを普遍というにはあまりに描かれている世界が狭すぎる。自分を離れて外界を見る視線がどこにも感じられない映画なのだ。映像からはともかく、まいのモノローグからは祖母が自分のために「体験」を演出してくれた事に気づいている雰囲気はないし、当然その事に特別に感謝している風もない。子どもだから仕方がないが、どれだけ自分が大事にされているのかもう少し悟ってもいいのではないだろうか。
私の目に映るまいは、公式サイトで書かれているような繊細な少女ではなく、愛されていることに鈍感な甘ったれで、「おばあちゃん大好き」という以外自分からは何の働きかけもしない女の子だった。ジブリ映画のヒロインを見慣れた目には、魅力の一欠片も感じられない女の子……主人公がそれだから、「西の魔女が死んだ」をおもしろいと感じられるワケがないのである。
(テレビ放送につき、2008年6月27日付けの記事 を再録)