誘拐された人間を救出するため、手がかりを求めて謎を解きながら街中を走り回る男。
こう書くとついこの下でチラシを紹介したばかりの「96時間」の主人公のことのようだが、実はこれが「天使と悪魔」のラングドン教授のことだと言っても通用するはずである。
フランスでもパリでもないが、先日見た韓国映画の「チェイサー」(公式サイト )でも主人公のジュンホは失踪した自分の店のデリヘル嬢、ミジンの行方を求めて文字通りにかけずり回っていた。
「96時間」は公開前なのでわからないが、「天使と悪魔」と「チェイサー」のどちらがおもしろかったかと問われれば、私は迷わず「チェイサー」と答える。
もちろん映画としての規模やロケやセットの壮大さ・美しさにおいては「天使と悪魔」の方が格段に上だ。用意された謎の複雑さに関しては、「チェイサー」など「天使と悪魔」の足元にも及ばないだろう。原作本のある強みである。
しかし映画の「天使と悪魔」は、ロン・ハワードのその他の監督作品同様、どこか物足りないのだ。それは原作で私がもっとも好きだった部分をカットされたという点を別にしてもそうなのである。前作の「ダ・ヴィンチ・コード」がそうだったように、彼の映画に対して感心するのは
「あの長大な原作をよくここまでまとめて映画化できたな」
というその一点に尽きるのだ。
私はロン・ハワード作品にも好きなものはあって「アポロ13」や「身代金」がそうなのだが、これはひとえに出演しているゲイリー・シニーズの演技によるものだし、「ビューティフル・マインド」に感動したのはラッセル・クロウだけじゃなくポール・ベタニーやエド・ハリスも素晴らしい演技をしていたからで、よくよく考えたら彼の監督としての手腕が好きだったわけではないらしい。初期の「スプラッシュ」や「コクーン」にあった瑞々しさを感じられなくなってからは、特に。
私の友達の映画ファンも口を揃えて言う。
「ロン・ハワード作品は物足りない」
決しておもしろくないわけではないのだが、何故か夢中になれないと。
その「何故」がず~っと何故なのか理解できなかったのだが、今回「チェイサー」と「天使と悪魔」を見比べたことで、その手がかりが掴めたような気がする。
「チェイサー」のジュンホは最初、粗暴で野蛮でどうしようもない男として登場する。デリへル店の店長という仕事にはそれなりに熱心だか、自分の人生に関してはどこか投げやりだ。元は警察に勤めていたというのに、何故今この仕事についているのかというのにも胡散臭い理由があるような気がする。
しかし彼が居場所の知れなくなったデリヘル嬢のミジンの行方を求めて必死に走る内に、彼の表面を覆っていた不純なもの――現在自分が甘んじている不遇な環境に対する鬱憤とか、世を拗ねている事で生まれる殺伐として気持ちとか、どこかから取り立てなければいけない金とか――そういったものがどんどん削ぎ落とされていくのだ。
粗暴というか、すぐ暴力にはしるのは彼の生来の性格とみえてそこは変わらないのだが、映画が進むにつれ何故彼が警察をやめなければならなかったのかも明らかになり、それが持ち前の正直さが災いしたことだと分かると、観客の彼に対する見方も一変する。
それまで汚い中年のおっさんだったジュンホが孤高のヒーローに見えてくるのだ。
残念ながらヒーローものではないので変身シーンがあるわけではなく、ジュンホ自身はおっさんのままで、しかもいい加減走り疲れてヨレヨレになっている姿ではあるのだが、ぜーぜー息をきらしつつ服装も乱れ邦題で、それでも走るのをやめようとしないその姿がイイのである。
走ることで汗とともに体の中にたまっていた毒素を流し出し、心の贅肉を落としたジュンホは、清廉である。
最初に出てきた脂ぎった生臭い男とはすっかり別人になっている。
まるで走ることが彼にとってのミソギであったかのようだ。
映画を見る内ジュンホに感情移入していた観客は、だから映画の最後ではジュンホと共に生まれ変わったような気分を心の片隅で味わっている。
内容は陰惨極まりないのに、「チェイサー」を見終わった後の気持ちがどこか爽やかなのはそのためだ。
そしてこの「生まれ変わったような気持ち」を味わえるからこそ、「チェイサー」は私にとって「天使と悪魔」よりもおもしろい作品なのである。
だって、「天使と悪魔」では、誰も何も変わらない。
ラングドンは謎を解くだけ。
その謎を解いたところで、「ダ・ヴィンチ・コード」のような、一種世界がひっくり返るような展開があるわけでもない。謎の解答は次の殺人現場を示唆するだけだから、暗殺者の猟奇な犯行を事前に阻止できるわけでもない。
「ナショナル・トレジャー」のように謎を解いていく過程で友情が深まり恋が生まれ父親との間のわだかまりもとけて、しかも最後には宝を手にするということもないのである(ここまでてんこ盛りだとさすがにどうかと思うが、でも映画を見ている間は楽しい)。
原作では、ラングドンは物語を進める上での仮の主人公であって、作者が本当に描きたかった人物というのが他にいて、その人にとってはそれこそ自分の人生を根本的に見直さなければいけない程の衝撃的な展開があったのだが、映画ではその部分まるまるカットだったので感情移入してミソギを受けるべき箇所が全部なくなっていたのである。
唯一何か変化があったとしたら、物理学者のヴィットリアが性善説にのっとった科学者の見解は甘いということを思い知ったぐらいだろうが、その辺はさら~っとながされているので全然心に響いてこない。
物語と謎解きをきちんとわかりやすくまとめるため、面倒な人間の葛藤部分は省いてみました、という感じ。
確かに映画としては分かりやすいけれど、見終わった後
「だから、なに?」
と言ってやりたくなる。
「だから何? 何だったの?」
――あ、新しい教皇が選出されたのね。
残念ながら私には新しい教皇が選出されたことで世の中に新しい息吹と変化が生じるだろうという喜びを映画から感じる事ができなかったのである。
ロン・ハワード作品は、変化する世界に対応しつつも根本は変わらない確固とした自分、というのを描きたいのかもしれない。どんな事態が降りかかっても冷静に対処し、問題を解決していく男達。ラングドンもそうだし、「アポロ13」のクルー達もそうだった(中には取り乱すヤツもいたが)。
そういう男は、女の目から見るととりつく島がないとも言える。
完成されすぎていて、こちらに手を入れる余地がない。
完璧に整えられたフランス風の庭園みたいなものだ。
美しいが、おもしろくない。
「だから、なに?」
である。
最近のロン・ハワード作品の中で唯一女友達がこれは好きだというのが「ビューティフル・マインド」なのだが、この主人公だけは映画の中で「変わる」からだろう。自力で、ではあるが、奥様の助力も得て。そこに女性の観客は自分達の入り込む隙を見つけることができるのだ。
他のロン・ハワード作品が「物足りない」のは、何かが足りないからではなく、足りない部分がないからなのであった。監督にしてみれば
「だったらどーせーっちゅーんじゃ!」
という事になるだろう。
でも好みというのは、そういうものなんだよね。
ま、これは私や私の友達の見解(=好み)なので、そうじゃないという方もたくさんいらっしゃることでしょう。
これは飽くまで一つの見方ということである。