冒頭のシーン、父親と息子が庭でバーベキューをしている。
それは夕食を囲んだ団欒のはずで、楽しいひとときであるはずなのに、何故か父親も息子もそうは見えない。
楽しさを無理矢理演出する事に、息子は倦み父親は疲れ果てているようにさえ見える。
「楽しさ」とは幸福な状態から自然に醸し出されるもの。その「楽しさ」を無理矢理演出しなければいけないということは、父も息子も幸せではないのだ。そこには幸せになるためのもう一つの大事な要因が欠けているのである。
アレックス・プロヤス監督の作品は、常に主人公の抱える深い喪失感が伝わって来るシーンで始まる。それが何なのかは映画の中で次第に明らかにされるのだが、一見何不自由ないように見える登場人物を見せながら彼らの内側にある得体の知れない欠落感を観客に示すワザは普通の監督にはちょっと真似ができないだろう。
「ノウイング」はどこか「ダークシティ」を思い起こさせる作品だった。
それはこの作品のローズ・バーンが「ダーク・シティ」の時のジェニファー・コネリーにそっくりだったせいかもしれないが、「ダークシティ」のコンセプトがそのまま「ノウイング」に引き継がれているのは確かである。
ただ、主人公の設定が完璧に違っているので、同じ作品の焼き直しというイメージは全くない。
主人公の心情に共通するものは、むしろ「アイ、ロボット」の方が大きいだろう。
この作品でも冒頭は完璧な肉体をもつウィル・スミスが激しい喪失感によって打ちひしがれている姿だった。
一見、完璧に見えるのに、実はそれは見せかけでしかない。
これがプロヤス監督が映画を作る時の一つの重要なテーマである。
それ以上に大事なテーマはもちろん喪失感なのだが、しかしそれは単に自分の大切なものを失って悲嘆にくれているというものではない。なくしたものを惜しむ以上に、登場人物達の心はもっと深く傷つき血を流している。
自分の大切なものが目の前で失われていくのに、その時何もできなかった自分に対する激しい後悔と自責の念。それが彼らの喪失感に輪をかけ、救いの手さえも拒否して自分自身を苦しめ続けるのである。
とりかえしのつかないものを失う前に、何か自分にできることはなかったのか?
――なかったのである、不幸なことに。
その時の自分には為す術はなかったことを百も承知の上で、それでも自分を責めずにはいられない程の深い深い喪失感。
そこから脱出するためには一体どんな方法があるのか。
自分のいる世界で自分のやった事が変えられないのなら、世界の方が変わればいい。
新しい世界でも違う世界でも別の世界でもあの世でもなんでもいい、自分のしでかした事がナシになってリセットされたところから始まる世界があればいいのだ。
プロヤス監督の映画は、だから常に新しい世界への希望で幕を閉じるのである。
それは「クロウ」の頃から変わっていないのだ。
常に闇の中を描く監督は、一筋の光がどれだけ強い希望を与えてくれるのかをよく知っているのだろう。