「ウルトラミラクルラブストーリー」公式サイト


当たり前の事だけど、映画に予算って大事だな、と思った。


もしもこの映画が低予算で主役に松山ケンイチを起用していなかったとしたら、ごく一部の人しか見はしなかっただろうし、そもそも作品として成立していたかどうかだって危うい。


類い希なるカリスマ性を備えた松山ケンイチを主役に据え、どんな難役も難なくこなしてしまう麻生久美子をヒロインに迎え、そして 藤田弓子、原田芳雄、渡辺美佐子といった重鎮クラスの名優達を脇に配したことでこの作品はようやく地に足をつけることができている。仮に俳優達が名もない、顔も知られていない人達ばかりだったとしたら――たとえ演技力がどれ程すぐれていたとしても――この映画を見続けることは難しかったと思う。


それはたとえばティム・バートンの「シザーハンズ」にジョニー・デップやウィノナ・ライダーやダイアン・ウィーストが出演していないのと同じ事だ。とはいえティム・バートン作品には独特の映像美があるから、それだけでも映画を見続ける原動力を得ることはできるかもしれない。


横浜聡子はどうだろう? 

残念ながら、ティム・バートン程の強いインパクトを映像そのものから受けるということは私にはなかった。まあ言ってみれば「普通」なんである、今のところは。

彼女の映像で印象に残っているのは「緑がとても綺麗だった」ことだから、自然の描写に長けている監督なのかもしれないが、なにしろ「自然」だからティム・バートンの持つ「不自然」にはかなわない。単に私が「不自然」な方が好きなだけとも言えるけれど。


「ウルトラミラクル~」を見ている時、そこは青森なのだなと、一度しか行ったことのない私にもはっきり判る瞬間があった。修学旅行で行った青森の奥入瀬渓流で見た、木々に茂る葉を透過してくる緑の光の美しさが映像の中にあふれていたから。葉の重なりの薄いところは明るく、厚い部分は暗く、光が点になって重なり合い、それが風に揺れてチラチラちらちらと瞬くのだ。光と影が矢継ぎ早に交替する世界。それが自然光の中で展開しているのである。その美しさは実際に見ないと分からないが、それが「ウルトラミラクル~」には見事にうつしとられていた。


ところで修学旅行の写真としてその奥入瀬の景色を大量に見せられた母は私につまらなさそうに言ったものだ。

「木ばっかりじゃない!」

そう、そこには人、つまり私やクラスメートがどこにも写っていなかったのである。


母の感想は正しい。

一般的に人は誰かに写真や映像を見せられる時、そこに人の姿を期待する。絵はがきでもなければ風景なんて期待しないし、その絵はがきは一瞥して「綺麗ね」で終わりである。風景そのものを堪能するためには自分がそこに行って感動を得なければダメなのである、そこが世界遺産として有名でもない限り。


私の持って行った奥入瀬の写真が母を感動させられなかったように、「ウルトラミラクルラブストーリー」の美しい背景、すなわち映像美もそれだけでは人々を感動させるのは難しいだろう。それがもっと普遍的な「自然」という総合的なものならともかく、「青森」だけでは普遍にまでは至らないのだ。


日本は南北にも東西にも意外と長い。

植生は、それぞれの地域でかなり違っている。

青森の美しさは青森独自のものだ。

それを際だたせるために松山ケンイチ始めメインとなる登場人物は皆津軽弁を喋っていて、そのリズムが作品全体を支えてもいるのだが、しかしこの映画の中で描かれている特殊性は青森とはまるで別なものなのである。


そこが青森だろうが東京だろうが、横浜聡子の世界は異質である。

その異質さにおいてティム・バートンと共通しているのだが、それを「青森」という一つの(東京とは)別世界の異質さで覆い隠そうとして覆い隠しきれなかった、それが「ウルトラミラクルラブストーリー」という作品だろう。


どんなに美しい自然光で彩っても、彼女の異質さは隠せない。返って浮き彫りになるばかりだ。


木を隠すには森というように、自分の異質さを隠すにはティム・バートンのように周りを不自然で埋め尽くす方が効果的なのかもしれない。その内観客の方がその異質さに慣れるまで。



異質であることは映画監督にとって武器になる。

それは諸刃の剣であり、使い方によっては自分を傷つける事にもなるが、しかし「普通」の人間には作れない作品を生み出す大元こそがその異質さなのだ。

横浜聡子が自分の異質さもっと上手に見せることができた時、日本映画界はティム・バートンに匹敵する映画監督を持つことができるのかもしれない。