「グッド・バッド・ウィアード」 公式サイト
公式サイトがキャッチフレーズで言ってるように「ハチャメチャ」ではなく、しっかりとした作りの映画でした。
「ハチャメチャ」という形容をつけるのならば、一人、ソン・ガンホ演じるユン・テグにだけでしょう。
とはいえこの映画のストーリーを引っ張っているのはユン・テグである以上、映画全体を見て「何でそうなるの?」的ハチャメチャ感が漂っていたのは間違いありません。
ただ、ユン・テグの行動が観客の目に「ハチャメチャ」に映るにしろ、彼自身はしっかり考え、自分の行動様式に従って動いているんですよね。その思考の過程が常人には追いつかないというだけで、彼の中に彼独特の論理はあるわけです。
それはユン・テグだけではなく、イ・ビョンホン演じるパク・チャンイもチョン・ウソンが演じたパク・ドウォンも同じ事。他の登場人物達もそれぞれ自分の心の声(良心とは限らない)に素直に従って生きているんです、映画の中で。
これがね、日本映画のようにモノローグで身の上を語ったり、ハリウッド映画のように周囲の情報で人物のバックグラウンドが宇鍵あがったりという登場人物に関する「説明」の部分が何にもないんですわ、この「グッド・バッド・ウィアード」。びっくりですよ。
それでいながら登場人物達はその世界で確固たる存在感を持ってしっかり生きている。これはひとえに役者の力ですね。
日本映画で下手な若手が演じれば、どんなに身の上話を語ろうが周りが説明台詞を喋ろうが、キャラはその映画のためだけに昨日生まれたような薄っぺらなものにしかなりません。人間としてこの世に生を受け、その年齢まで育ってきた軌跡が感じ取れないんです。
ハリウッド映画なんかでは、そういった細々した生い立ちは俳優自身が作り上げていきます。資料にして本何冊分、という感じですよね。ただそれは割と論理的に積み上げられていくので(何歳の時にこれこれのトラウマがあったせいで大人になってこうなった、みたいな)、それが完璧であれば完璧であるほど、フィクションとして作り上げられた最高のキャラ、というイメージから外れることができなくなるんですよね。たとえばハンニバル・レクター博士のように。演じているアンソニー・ホプキンスが生身の人間だから彼の表現しているハンニバルも人間に見えるにすぎないという部分が往々にしてあります。
ところがこの「グッド・バッド・ウィアード」はそれらとは全然手法が違う。
俳優達は今生きているその登場人物の「考え方」とそれに基づく「反応」を作り上げるんです。
幼少期に何があってこうなったとか下敷き部分も考えてたのかもしれませんが、そういう生い立ちとかバックグラウンドは全く語られません。語られないのに、彼らのとる行動には彼らなりの筋が一本ぴーんと通っている。
「何故」という理由は語られません。
そういう部分で結構煙に巻かれる観客はいるかもしれませんが、しかし彼らが銃を抜く時や撃つ時の理由はいつも必ず決まっています。
パク・チャンイなら、相手が気に障った時。
銃でもナイフでも即座に抜きます。
とりあえず抜いてからどうするか考える場合もあるけれど、大抵は即発砲。問答無用。
パク・ドウォンは賞金稼ぎですから、その獲物を手に入れるため。それと当然ながら自己防衛。
ユン・テグは……彼が一番難しいのですが、自分の口八丁で相手を誤魔化す必要のない(なくなった)時でしょうか。
これが決まっているだけで、過去のわからない登場人物達が見事に息づいて見える。人間というものはある事象に対してどう反応するかというのは一定のセオリーに沿って決まっているもので、その反応の違いが個性を生み出しているからなのです。様々な条件下であってもその基本的なセオリーは変わらない。それはいってみれば優先順位の付け方で、その人にとって何が一番になるのか、あらゆる比較をした上ですべてにおいて絶対に一番になるものは何なのかということなんですね。
それは少年ジャンプの売りである「愛」「友情」「勝利」にどこか通じていますが、しかしそんな漠然としたものではない。
例えば「勝利」であっても、銃を抜くのが一番早いのか、射撃の正確性において誰にもひけをとらないのか、方法はなんであれ相手を殺せばいいのか、何が何でも自分が生き抜けばいいのか、それは個人によって違うのです。
「グッド・バッド・ウィアード」の俳優達はその言葉にならない人間の精神の根本にある「欲求」という部分にまで深く入り込んで優先順位を作り上げた。彼らは皆、自分が何をしたいのか分かっている。そしてそのために必死になって今を生きている。だから過去が一切語られなくても、映画の中で「今」を生きている彼らがリアルな人間として観客の心に迫ってくるのです。
さらにいえば、観客には何故彼らがそんな事をするのか分からなくてさえ構わない。だって、現実の生活の中で「なんでそんな事するのか理解できない」って人、たくさんいません? でも理解できなくても、きっとその人にはその人の考え方があるんだろうと思ってやりすごしたりするじゃありませんか。だって、その人は現実に生きている人間なんだから、その存在を否定することはできないんですもの。
「グッド・バッド・ウィアード」って、そういう映画なんですよ。
登場人物達が何故そんな行動とるのか理解できなくても、きっと彼らには彼らなりの考え方があるんだろうで見てしまえる。そのくらい、現実の人間としてキャラがたっているのです。それもセリフではなく、表情や動きだけで観客にそれを伝えているのですから!
イ・ビョンホンなんて「G.I.ジョー」の英語のセリフの方がよっぽどたくさん喋ってたんじゃないでしょうか?
何も言わなくても彼の悪の化身ぶりは抜きんでて美しかった!
チョン・ウソンは乗馬がずば抜けて上手で、馬上で手綱を放して両手でショットガン構えたの見た時には思わず拍手喝采したくなりましたよ。彼のアクションは本当にみごたえがありました。
残念ながら、イ・ビョンホンとソン・ガンホに比べると、彼って普通なのが災いしてもひとつ目立てませんでしたが。
そしてソン・ガンホ!
彼なくしてこの作品は成立しませんね!
もう、何から何まで最高でした。とにかく笑わせてくれるのが上手いのなんの!
問答無用におもしろい映画なので、暑気払いにはぴったりです。
この迫力はぜひともスクリーンで味わってください。
公式サイトがキャッチフレーズで言ってるように「ハチャメチャ」ではなく、しっかりとした作りの映画でした。
「ハチャメチャ」という形容をつけるのならば、一人、ソン・ガンホ演じるユン・テグにだけでしょう。
とはいえこの映画のストーリーを引っ張っているのはユン・テグである以上、映画全体を見て「何でそうなるの?」的ハチャメチャ感が漂っていたのは間違いありません。
ただ、ユン・テグの行動が観客の目に「ハチャメチャ」に映るにしろ、彼自身はしっかり考え、自分の行動様式に従って動いているんですよね。その思考の過程が常人には追いつかないというだけで、彼の中に彼独特の論理はあるわけです。
それはユン・テグだけではなく、イ・ビョンホン演じるパク・チャンイもチョン・ウソンが演じたパク・ドウォンも同じ事。他の登場人物達もそれぞれ自分の心の声(良心とは限らない)に素直に従って生きているんです、映画の中で。
これがね、日本映画のようにモノローグで身の上を語ったり、ハリウッド映画のように周囲の情報で人物のバックグラウンドが宇鍵あがったりという登場人物に関する「説明」の部分が何にもないんですわ、この「グッド・バッド・ウィアード」。びっくりですよ。
それでいながら登場人物達はその世界で確固たる存在感を持ってしっかり生きている。これはひとえに役者の力ですね。
日本映画で下手な若手が演じれば、どんなに身の上話を語ろうが周りが説明台詞を喋ろうが、キャラはその映画のためだけに昨日生まれたような薄っぺらなものにしかなりません。人間としてこの世に生を受け、その年齢まで育ってきた軌跡が感じ取れないんです。
ハリウッド映画なんかでは、そういった細々した生い立ちは俳優自身が作り上げていきます。資料にして本何冊分、という感じですよね。ただそれは割と論理的に積み上げられていくので(何歳の時にこれこれのトラウマがあったせいで大人になってこうなった、みたいな)、それが完璧であれば完璧であるほど、フィクションとして作り上げられた最高のキャラ、というイメージから外れることができなくなるんですよね。たとえばハンニバル・レクター博士のように。演じているアンソニー・ホプキンスが生身の人間だから彼の表現しているハンニバルも人間に見えるにすぎないという部分が往々にしてあります。
ところがこの「グッド・バッド・ウィアード」はそれらとは全然手法が違う。
俳優達は今生きているその登場人物の「考え方」とそれに基づく「反応」を作り上げるんです。
幼少期に何があってこうなったとか下敷き部分も考えてたのかもしれませんが、そういう生い立ちとかバックグラウンドは全く語られません。語られないのに、彼らのとる行動には彼らなりの筋が一本ぴーんと通っている。
「何故」という理由は語られません。
そういう部分で結構煙に巻かれる観客はいるかもしれませんが、しかし彼らが銃を抜く時や撃つ時の理由はいつも必ず決まっています。
パク・チャンイなら、相手が気に障った時。
銃でもナイフでも即座に抜きます。
とりあえず抜いてからどうするか考える場合もあるけれど、大抵は即発砲。問答無用。
パク・ドウォンは賞金稼ぎですから、その獲物を手に入れるため。それと当然ながら自己防衛。
ユン・テグは……彼が一番難しいのですが、自分の口八丁で相手を誤魔化す必要のない(なくなった)時でしょうか。
これが決まっているだけで、過去のわからない登場人物達が見事に息づいて見える。人間というものはある事象に対してどう反応するかというのは一定のセオリーに沿って決まっているもので、その反応の違いが個性を生み出しているからなのです。様々な条件下であってもその基本的なセオリーは変わらない。それはいってみれば優先順位の付け方で、その人にとって何が一番になるのか、あらゆる比較をした上ですべてにおいて絶対に一番になるものは何なのかということなんですね。
それは少年ジャンプの売りである「愛」「友情」「勝利」にどこか通じていますが、しかしそんな漠然としたものではない。
例えば「勝利」であっても、銃を抜くのが一番早いのか、射撃の正確性において誰にもひけをとらないのか、方法はなんであれ相手を殺せばいいのか、何が何でも自分が生き抜けばいいのか、それは個人によって違うのです。
「グッド・バッド・ウィアード」の俳優達はその言葉にならない人間の精神の根本にある「欲求」という部分にまで深く入り込んで優先順位を作り上げた。彼らは皆、自分が何をしたいのか分かっている。そしてそのために必死になって今を生きている。だから過去が一切語られなくても、映画の中で「今」を生きている彼らがリアルな人間として観客の心に迫ってくるのです。
さらにいえば、観客には何故彼らがそんな事をするのか分からなくてさえ構わない。だって、現実の生活の中で「なんでそんな事するのか理解できない」って人、たくさんいません? でも理解できなくても、きっとその人にはその人の考え方があるんだろうと思ってやりすごしたりするじゃありませんか。だって、その人は現実に生きている人間なんだから、その存在を否定することはできないんですもの。
「グッド・バッド・ウィアード」って、そういう映画なんですよ。
登場人物達が何故そんな行動とるのか理解できなくても、きっと彼らには彼らなりの考え方があるんだろうで見てしまえる。そのくらい、現実の人間としてキャラがたっているのです。それもセリフではなく、表情や動きだけで観客にそれを伝えているのですから!
イ・ビョンホンなんて「G.I.ジョー」の英語のセリフの方がよっぽどたくさん喋ってたんじゃないでしょうか?
何も言わなくても彼の悪の化身ぶりは抜きんでて美しかった!
チョン・ウソンは乗馬がずば抜けて上手で、馬上で手綱を放して両手でショットガン構えたの見た時には思わず拍手喝采したくなりましたよ。彼のアクションは本当にみごたえがありました。
残念ながら、イ・ビョンホンとソン・ガンホに比べると、彼って普通なのが災いしてもひとつ目立てませんでしたが。
そしてソン・ガンホ!
彼なくしてこの作品は成立しませんね!
もう、何から何まで最高でした。とにかく笑わせてくれるのが上手いのなんの!
問答無用におもしろい映画なので、暑気払いにはぴったりです。
この迫力はぜひともスクリーンで味わってください。