「笑う警官」公式サイト
この映画の脚本、よくできてるんです。
でもこれを書いた脚本家(角川春樹氏)御自身が、自分の書いた脚本のできの良さに酔ってるんですよね。
観客にはそれが見えます。
だから、脚本家が自分に酔ってる
「ああ、この部分、我ながら上手に書けたぞ、へへへっ」
の部分がこの作品の肝であることがすぐに分かる。
それがあまりにも分かりやすいために、その後の謎解きが全部意味をなさないものになるのですわ。
この作品は原作についても何も知らず事前情報もほとんど知らないまま、ただ「道警」が舞台だというので見に行ったんですけどね、映像的に北海道の景色は楽しめたんですが内容はサッパリだったですね~。唯一みっけもんだったのが松山ケンイチ君のカメオ出演。ホント、よかったのはここだけ。
なんと申しましょうか、リアリティーに欠けるんですよ。
あら、いえ、私は北海道出身ですからね道警なら映画で描かれてたような事あっても別に不思議はないだろうと思います。道警に限らないかもしれないけれど、でも北海道ってちょっとやっぱり本州とは切り離されていて独自の世界があったりしますもんね。北海道人の感覚がそもそも微妙に違うというか。
リアリティーを感じられなかっのは、道警ならばその北海道人が大多数を占めているだろうに、メインキャラの誰一人として北海道弁を喋ってなかったから。一瞬東京の警視庁の話かと勘違いしちゃいましたよ。
もちろん北海道とはいえ、公務員のお偉方は東大卒でキャリアの人がやってきますよ。
でも現場の人はほとんどが現地採用の北海道出身なんじゃないですか? 北海道出身の人は、あんなイントネーションで喋りませんよ。札幌だってああじゃない。仕事上のつきあいだからかしこまってるのかもしれませんが、でも北海道人は自分たちが標準語を喋ってないなんて思ってもいないから、逆に平気で北海道方言を内地から来た上司相手だろうがばんばん使うんですわ。
あれは北海道じゃない。
道警が出てきても、風景が札幌でも、完全に別物です。
もっとも北海道弁を喋ろうが喋るまいが、あの作品にリアリティーは感じられなかったと思います。
残念ながら脚本家御本人が悦に入ってる程、良いできの脚本じゃないんですよ、あれ。
原作のプロットのおもしろさを全部殺してるんじゃないでしょうか?
描きようによってはもっとおもしろくなるはずの原作を無駄にしたという気もしないじゃありません。それは読んでないから何とも言えないんですけれどね。
脚本同様、角川春樹氏の演出も自分に酔ってるばかりで褒められた部分がないのです。
「どうだ、いいだろ、この映像、このアングル♪
どうだ、すごいだろ、このモブの使い方♪
どうだ、上手いだろ、このさりげない伏線の張り方」
と大っぴらに自画自賛しているような作品なので、御本人がこの映像を得意に思ってるんだなということばかりが先に観客に伝わって来て、肝心のキャラクターの内面に迫ることができません。
とはいえメインとならキャラクターもほとんど全員が自分に酔ってるような人達揃いなんで、感情移入のしようもないんですが。
この作品本来のテーマは、たとえば「ダークナイト」に近いものなはずなのです。
描き方によっては「ダークナイト」ばりに感動的なものになったかもしれない。
しかし脚本と演出とキャラクターが終始自分に酔うことに執着しているために、観客が受け取るのは「自己犠牲」の尊い精神ではなく、「自己満足」と「自己憐憫」。一人でやってなさい、と突き放したくなります。
他人に迷惑かけまくった挙げ句、一人で責任を背負ったつもりになって「誰にも理解して貰えないさ……」なんて呟きながら、その「誰にも理解して貰えない世界」に浸っている男。そういう男は私には魅力的とは思えない。そういう男が主役の映画など、全くおもしろいとは思えない。そういう事です。
この主役、いつそんな暇があるのか知りませんが、聞かせる相手もいないのに一人でサックスを吹きます。楽器は自己表現の手段ですが、自分自身を知って貰うためには人に聞かせる必要があるのに、それを目的とせずにひたすら吹くのは欲求不満の解消か或いは自己陶酔。この映画で見る限り、主人公のそれは完全に後者です。
そんな自己陶酔型の主人公に振り回されて運命を狂わされた人がひたすら可哀想でした。主人公はそれすらも自己憐憫に取り入れて自分に酔ってましたが。
結局「ダークナイト」と「笑う警官」の何が違うのかって、バットマンは人のために自分を犠牲にしているけれど、「笑う警官」の主人公は自分のために自分を犠牲にしてるという違いですよね。しかもバットマンは他人を巻き込まないように必死なのに、「笑う警官」は平気で人を巻き込み利用する。やっておいてから、自分で自分の罪にうちひしがれてもらってもな~、って感じ。
もちろん現実の人間により近いのは「笑う警官」の方でしょうが、だからといってそれがリアリティーをもたらすわけではない。ただひたすら魅力のない主人公の行動を追うことに観客は疲れてしまいます。
何よりこの作品にはカタルシスがない。
主人公は劇中サックスを吹くという行為でカタルシスを得てますが、そのカタルシスは観客のものにはなり得ません。自己陶酔している登場人物を見て自己陶酔できる人は滅多にいませんから。そんなのは映画を撮ってる監督ぐらいでしょう。
見るべき所の松山君しかない作品でした。
この映画の脚本、よくできてるんです。
でもこれを書いた脚本家(角川春樹氏)御自身が、自分の書いた脚本のできの良さに酔ってるんですよね。
観客にはそれが見えます。
だから、脚本家が自分に酔ってる
「ああ、この部分、我ながら上手に書けたぞ、へへへっ」
の部分がこの作品の肝であることがすぐに分かる。
それがあまりにも分かりやすいために、その後の謎解きが全部意味をなさないものになるのですわ。
この作品は原作についても何も知らず事前情報もほとんど知らないまま、ただ「道警」が舞台だというので見に行ったんですけどね、映像的に北海道の景色は楽しめたんですが内容はサッパリだったですね~。唯一みっけもんだったのが松山ケンイチ君のカメオ出演。ホント、よかったのはここだけ。
なんと申しましょうか、リアリティーに欠けるんですよ。
あら、いえ、私は北海道出身ですからね道警なら映画で描かれてたような事あっても別に不思議はないだろうと思います。道警に限らないかもしれないけれど、でも北海道ってちょっとやっぱり本州とは切り離されていて独自の世界があったりしますもんね。北海道人の感覚がそもそも微妙に違うというか。
リアリティーを感じられなかっのは、道警ならばその北海道人が大多数を占めているだろうに、メインキャラの誰一人として北海道弁を喋ってなかったから。一瞬東京の警視庁の話かと勘違いしちゃいましたよ。
もちろん北海道とはいえ、公務員のお偉方は東大卒でキャリアの人がやってきますよ。
でも現場の人はほとんどが現地採用の北海道出身なんじゃないですか? 北海道出身の人は、あんなイントネーションで喋りませんよ。札幌だってああじゃない。仕事上のつきあいだからかしこまってるのかもしれませんが、でも北海道人は自分たちが標準語を喋ってないなんて思ってもいないから、逆に平気で北海道方言を内地から来た上司相手だろうがばんばん使うんですわ。
あれは北海道じゃない。
道警が出てきても、風景が札幌でも、完全に別物です。
もっとも北海道弁を喋ろうが喋るまいが、あの作品にリアリティーは感じられなかったと思います。
残念ながら脚本家御本人が悦に入ってる程、良いできの脚本じゃないんですよ、あれ。
原作のプロットのおもしろさを全部殺してるんじゃないでしょうか?
描きようによってはもっとおもしろくなるはずの原作を無駄にしたという気もしないじゃありません。それは読んでないから何とも言えないんですけれどね。
脚本同様、角川春樹氏の演出も自分に酔ってるばかりで褒められた部分がないのです。
「どうだ、いいだろ、この映像、このアングル♪
どうだ、すごいだろ、このモブの使い方♪
どうだ、上手いだろ、このさりげない伏線の張り方」
と大っぴらに自画自賛しているような作品なので、御本人がこの映像を得意に思ってるんだなということばかりが先に観客に伝わって来て、肝心のキャラクターの内面に迫ることができません。
とはいえメインとならキャラクターもほとんど全員が自分に酔ってるような人達揃いなんで、感情移入のしようもないんですが。
この作品本来のテーマは、たとえば「ダークナイト」に近いものなはずなのです。
描き方によっては「ダークナイト」ばりに感動的なものになったかもしれない。
しかし脚本と演出とキャラクターが終始自分に酔うことに執着しているために、観客が受け取るのは「自己犠牲」の尊い精神ではなく、「自己満足」と「自己憐憫」。一人でやってなさい、と突き放したくなります。
他人に迷惑かけまくった挙げ句、一人で責任を背負ったつもりになって「誰にも理解して貰えないさ……」なんて呟きながら、その「誰にも理解して貰えない世界」に浸っている男。そういう男は私には魅力的とは思えない。そういう男が主役の映画など、全くおもしろいとは思えない。そういう事です。
この主役、いつそんな暇があるのか知りませんが、聞かせる相手もいないのに一人でサックスを吹きます。楽器は自己表現の手段ですが、自分自身を知って貰うためには人に聞かせる必要があるのに、それを目的とせずにひたすら吹くのは欲求不満の解消か或いは自己陶酔。この映画で見る限り、主人公のそれは完全に後者です。
そんな自己陶酔型の主人公に振り回されて運命を狂わされた人がひたすら可哀想でした。主人公はそれすらも自己憐憫に取り入れて自分に酔ってましたが。
結局「ダークナイト」と「笑う警官」の何が違うのかって、バットマンは人のために自分を犠牲にしているけれど、「笑う警官」の主人公は自分のために自分を犠牲にしてるという違いですよね。しかもバットマンは他人を巻き込まないように必死なのに、「笑う警官」は平気で人を巻き込み利用する。やっておいてから、自分で自分の罪にうちひしがれてもらってもな~、って感じ。
もちろん現実の人間により近いのは「笑う警官」の方でしょうが、だからといってそれがリアリティーをもたらすわけではない。ただひたすら魅力のない主人公の行動を追うことに観客は疲れてしまいます。
何よりこの作品にはカタルシスがない。
主人公は劇中サックスを吹くという行為でカタルシスを得てますが、そのカタルシスは観客のものにはなり得ません。自己陶酔している登場人物を見て自己陶酔できる人は滅多にいませんから。そんなのは映画を撮ってる監督ぐらいでしょう。
見るべき所の松山君しかない作品でした。