「ニュームーン/トワイライト・サーガ」公式サイト
アメリカを始め海外では爆発的なヒットとなった「ニュームーン/トワイライト・サーガ」だけど、不思議と日本ではヒットしたという話を聞かない。興行成績ベスト10でも、よくて精々5位、6位どまりだったのではないだろうか。
実際初日に見た私も特にこの映画をおもしろいとは思わなかった。
何がおもしろくないって、ヒロインのベラがつまらん女なのである。
「トワイライト」の時はそれなりに魅力的に見えたはずのベラが、「ニュームーン」では全く魅力的に見えない。
これは役者のせいではなく、監督の違いによるものだろう。
「トワイライト」の監督は女性だったから、女性の目から見ても魅力的なヒロインを作り上げることができたが、交代した「ニュームーン」の監督は男性なので、彼にとって最も魅力を感じる女性像をベラに重ね合わせたが、それが少なくとも日本の女性の観客には受けなかったというわけだ。
「ニュームーン」の監督って「ライラの冒険」を撮ったクリス・ワイツなのだが、ライラに物足りなさを感じたのと全く同じ理由で彼の演出したベラには心底失望してしまった。
「トワイライト」では独立心と冒険心に富んでいたはずのベラが「ニュームーン」ではただ守られるだけの存在に成り果てていたのだ。
彼女の行動は、常に自分が完全に守られているのが前提なのである。
ベラ自身がはっきりとそう認識しているというわけではないのだが、どうも彼女が「ニュームーン」の中でとっている行動を見ていると、万が一自分が危険な状態に陥ってもパパか、ジェイコブか、エドワードが助けに来てくれるという目算に基づいた上で向こう見ずを装っているようにしか思えないのである。
映画の中のベラは常に真剣で、命を落とすかもしれない行為だってそうと理解した上で行っている。
それでいて、何故か彼女は完全に信じているのだ。自分が危険に陥ったら誰かが身を挺して助けに来てくれると。
「あなたのためなら死んでもいい」
と口では言いながら、彼女が取っている行動ってその実
「命がけで私を守って」
と言っているのも同然だと私には思えるのだ。
「トワイライト」のベラは直情的で、「あなたのためなら死んでもいい」に裏の意味はなかった。このベラならエドワードのために喜んで自分の命を捨てただろう。
だが「ニュームーン」のベラは違う。このベラの行動原理は「あなたに一目会えるなら死んでもいい」なので、ここで彼女が命を捨てたとしてもどこまでも自分自身のためなのだ。
それはそれでいい。
自分のために自分の命を捨てるのは彼女の勝手だ。
馬鹿だとは思うが、彼女にその覚悟がありさえすれば、日本人ならその潔さをよしとするだろう。
しかし映画のベラは潔くなんかないのだ。
彼女は、自分の命に危険が及べばエドワードが助けてくれると分かっている。
言葉で何をどう言おうとも、ベラの行動は最後には助けて貰えると信じているもののそれなのだ。
自分で自分を窮地に追い込んでおいて、誰かが救いに来てくれるのを待っている――それが「ニュームーン/トワイライト・サーガ」のベラなのである。
「守られている」と確信した上で行う危険な行為は冒険ではない。それは他人を危険に巻き込んでもかまわないという、無茶で無鉄砲で無責任な行動で、無駄に自分や他人の命を死の危険にさらしているだけの愚かな行為だ。彼女は他人はおろか、自分の命一つ自分で守れない馬鹿女なのである。
まあ、男性にとってはそこが可愛いのかもしれないが。
映画「ニュームーン」のベラは言ってみれば男性に守られるために存在しているヒロインだ。
彼女の行動は男性に「守ってやりたい」と か「オレがついてなきゃダメなんだ」という保護欲を喚起させるための動機付けとやるように作品上でプログラムされたものにすぎず、それ故映画の中で主体的に生き いるようには見えてこない。
ただ、守られるためだけに存在するヒロイン。
「ハロウィン」でローリーが絶叫をあげながらもマイケルから逃げおおせ、「エイリアン」ではリプリーが震えおののきつつもエイリアンを宇宙の彼方に吹っ飛ばし、「ターミネーター」でサラ・コナーが戦士としての自分に目覚め、「バイオハザード」ではアリスが記憶もないのにリビングデッドを撃退しまくった、ホラーやSFにおける強い女性像は一体どこにいったのだ?!
「トゥームレイダー」ではララ・クロフトが部下を上手に使い、「ハムナプトラ」ではエブリンが後に生涯の伴侶とはなるリックと協力して魔を滅して世界を元に戻した、ファンタジーにおける知恵と勇気の女性像はもはや継承されていないのか?
「タイタニック」のローズは、自分がただ守られて生きるだけの存在でしかない事に絶望して海に身を投げようとしていたのではなかったか? その後ジャックに出会ったことで自分自身の主体的な人生を生き抜く決意を得て、それをまっとうしたのではなかったのか?
この40年程の間に目覚め、立ち上がり、自分の愛する者を背後に守りつつ戦い抜き、主体的に生きてきた強く美しきヒロインの系譜はどこにいってしまったのだ?
そう、「トワイライト」はいざしらず、「ニュームーン」におけるベラって、映画の歴史を4~50年遡ったぐらい古めかしいヒロイン像なのである。自分では建設的な事は何一つやらず(敵を撃退するのが果たして建設的と言えるかどうかはこの際おいといて)、ただ男に守られているだけのつまらないヒロイン、それがベラ。
「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの方がまだしも建設的だったわ。
別に昔の映画のヒロインが全部つまらないと言っているわけではない。
ベラみたいなヒロイン像がこの40年を見てきた私にとっては物足りないと言っているだけである。
昔の映画によく出てきたパターンに、ヒーローが戦っている所に用もないのにのこのこ現れてはあっさり敵に捕まって人質になり、ヒーローを絶体絶命の窮地に追い込むというアホ女(一応、ヒロイン)がいるのだが、どうもベラにはその血が受け継がれているようなのである。そういう女を主人公に据えると「ニュームーン」みたいな作品になるのだろう。女性である私の目から見ると、憤懣やるかたないのだが。
このベラの描き方が要するに「ニュームーン/トワイライト・サーガ」に対する私の全ての不満につながっているわけである。
しかしですね、私は思ったのですよ。
こんな、私から見るとつまらないヒロイン像のベラの映画がアメリカで大ヒットするというのは、この映画を見ている観客達がベラをひとつの理想として憧れているからに違いないと。
「ニュームーン」を見るメインの世代というのは若い、おそらくがティーンのはずで、そんな彼女達が心の底で望んでいるのは、男性達(はい、複数です、ここ)に愛され、ひたすら守り抜かれる女性であるベラのような境遇なのかなって。
自らが戦うことはなく、ただ彼の愛に甘えてればいいなんて、そりゃ確かにぬくぬくと幸せには違いないです。
でも、だったら、今や死語となったけれど、ウーマンリブで培ってきたはずの女性の権利って、一体何だったんだろって。
もちろんこれはアメリカの話でね、男性と同じ権利を主張するためには男性以上に働かなくてはならなくなった女性のあり方に、アメリカの女性は少々、いや、かなり、お疲れ気味なのかもしれません。だってヒラリー・クリントンを見ると、時に痛々しく思ったりしません?
この半世紀程の揺り戻しが今アメリカには来てるのかな、という気がします。
自分はごく普通の女でも、素晴らしい男性に選ばれて結婚しさえすれば、今よりもステイタスが上の暮らしができて幸せな一生をおくれるんだ(いわゆる玉の輿ね)と女性が無邪気に信じることができた時代がアメリカは懐かしいのかもしれません。
アメリカと、そしてヨーロッパはね。
日本は生憎というか残念ながらというか、女性の地位がまだそこまで高くなっていないので。
相変わらず、結婚さえすれば幸せになれるという幻想が盛んですからね。特に最近では「婚活」なんて言葉が生まれる程。
だから別に「ニュームーン」を見ても特に強く憧れを抱くということがないのかもしれません。結婚したら女性が相手のために自分の人生を捨てるのは、日本においては結構当たり前のことですから。
そこがたぶん、アメリカとは大きく違う点なのでしょうね。
でもこの「ニュームーン」が大ヒットしたということは、アメリカのティーンの女の子達がアメリカ的な価値観に大いなる不満を抱いているということ。アメリカの女の子達は自分で敵に立ち向かうより誰かに守って貰う方がずっと楽だと思い始めているのでしょう。いずれ日本の男の子がアメリカの女の子達にひっぱりだこになる日が来るのかも♪
ここ数年、「ニュームーン」のようにアメリカで大ヒットしても日本ではさっぱり……という作品が増えているけれど、それはアメリカと日本の社会のあり方が全然違ってしまったせいではないかと思うことがよくあります。アメリカでは「家族」の解体と再構成が盛んだけれど、日本はまだそこまでいってない……今でも当然のように「家族」を「家族」という一単位として数えることができるんです。
それは幸せなことなのかもしれません。
その幸せをなくしてしまったアメリカの映画が現在の日本で受けないのは、仕方がないと言うよりも当たり前のことなのかもしれませんね。
アメリカを始め海外では爆発的なヒットとなった「ニュームーン/トワイライト・サーガ」だけど、不思議と日本ではヒットしたという話を聞かない。興行成績ベスト10でも、よくて精々5位、6位どまりだったのではないだろうか。
実際初日に見た私も特にこの映画をおもしろいとは思わなかった。
何がおもしろくないって、ヒロインのベラがつまらん女なのである。
「トワイライト」の時はそれなりに魅力的に見えたはずのベラが、「ニュームーン」では全く魅力的に見えない。
これは役者のせいではなく、監督の違いによるものだろう。
「トワイライト」の監督は女性だったから、女性の目から見ても魅力的なヒロインを作り上げることができたが、交代した「ニュームーン」の監督は男性なので、彼にとって最も魅力を感じる女性像をベラに重ね合わせたが、それが少なくとも日本の女性の観客には受けなかったというわけだ。
「ニュームーン」の監督って「ライラの冒険」を撮ったクリス・ワイツなのだが、ライラに物足りなさを感じたのと全く同じ理由で彼の演出したベラには心底失望してしまった。
「トワイライト」では独立心と冒険心に富んでいたはずのベラが「ニュームーン」ではただ守られるだけの存在に成り果てていたのだ。
彼女の行動は、常に自分が完全に守られているのが前提なのである。
ベラ自身がはっきりとそう認識しているというわけではないのだが、どうも彼女が「ニュームーン」の中でとっている行動を見ていると、万が一自分が危険な状態に陥ってもパパか、ジェイコブか、エドワードが助けに来てくれるという目算に基づいた上で向こう見ずを装っているようにしか思えないのである。
映画の中のベラは常に真剣で、命を落とすかもしれない行為だってそうと理解した上で行っている。
それでいて、何故か彼女は完全に信じているのだ。自分が危険に陥ったら誰かが身を挺して助けに来てくれると。
「あなたのためなら死んでもいい」
と口では言いながら、彼女が取っている行動ってその実
「命がけで私を守って」
と言っているのも同然だと私には思えるのだ。
「トワイライト」のベラは直情的で、「あなたのためなら死んでもいい」に裏の意味はなかった。このベラならエドワードのために喜んで自分の命を捨てただろう。
だが「ニュームーン」のベラは違う。このベラの行動原理は「あなたに一目会えるなら死んでもいい」なので、ここで彼女が命を捨てたとしてもどこまでも自分自身のためなのだ。
それはそれでいい。
自分のために自分の命を捨てるのは彼女の勝手だ。
馬鹿だとは思うが、彼女にその覚悟がありさえすれば、日本人ならその潔さをよしとするだろう。
しかし映画のベラは潔くなんかないのだ。
彼女は、自分の命に危険が及べばエドワードが助けてくれると分かっている。
言葉で何をどう言おうとも、ベラの行動は最後には助けて貰えると信じているもののそれなのだ。
自分で自分を窮地に追い込んでおいて、誰かが救いに来てくれるのを待っている――それが「ニュームーン/トワイライト・サーガ」のベラなのである。
「守られている」と確信した上で行う危険な行為は冒険ではない。それは他人を危険に巻き込んでもかまわないという、無茶で無鉄砲で無責任な行動で、無駄に自分や他人の命を死の危険にさらしているだけの愚かな行為だ。彼女は他人はおろか、自分の命一つ自分で守れない馬鹿女なのである。
まあ、男性にとってはそこが可愛いのかもしれないが。
映画「ニュームーン」のベラは言ってみれば男性に守られるために存在しているヒロインだ。
彼女の行動は男性に「守ってやりたい」と か「オレがついてなきゃダメなんだ」という保護欲を喚起させるための動機付けとやるように作品上でプログラムされたものにすぎず、それ故映画の中で主体的に生き いるようには見えてこない。
ただ、守られるためだけに存在するヒロイン。
「ハロウィン」でローリーが絶叫をあげながらもマイケルから逃げおおせ、「エイリアン」ではリプリーが震えおののきつつもエイリアンを宇宙の彼方に吹っ飛ばし、「ターミネーター」でサラ・コナーが戦士としての自分に目覚め、「バイオハザード」ではアリスが記憶もないのにリビングデッドを撃退しまくった、ホラーやSFにおける強い女性像は一体どこにいったのだ?!
「トゥームレイダー」ではララ・クロフトが部下を上手に使い、「ハムナプトラ」ではエブリンが後に生涯の伴侶とはなるリックと協力して魔を滅して世界を元に戻した、ファンタジーにおける知恵と勇気の女性像はもはや継承されていないのか?
「タイタニック」のローズは、自分がただ守られて生きるだけの存在でしかない事に絶望して海に身を投げようとしていたのではなかったか? その後ジャックに出会ったことで自分自身の主体的な人生を生き抜く決意を得て、それをまっとうしたのではなかったのか?
この40年程の間に目覚め、立ち上がり、自分の愛する者を背後に守りつつ戦い抜き、主体的に生きてきた強く美しきヒロインの系譜はどこにいってしまったのだ?
そう、「トワイライト」はいざしらず、「ニュームーン」におけるベラって、映画の歴史を4~50年遡ったぐらい古めかしいヒロイン像なのである。自分では建設的な事は何一つやらず(敵を撃退するのが果たして建設的と言えるかどうかはこの際おいといて)、ただ男に守られているだけのつまらないヒロイン、それがベラ。
「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの方がまだしも建設的だったわ。
別に昔の映画のヒロインが全部つまらないと言っているわけではない。
ベラみたいなヒロイン像がこの40年を見てきた私にとっては物足りないと言っているだけである。
昔の映画によく出てきたパターンに、ヒーローが戦っている所に用もないのにのこのこ現れてはあっさり敵に捕まって人質になり、ヒーローを絶体絶命の窮地に追い込むというアホ女(一応、ヒロイン)がいるのだが、どうもベラにはその血が受け継がれているようなのである。そういう女を主人公に据えると「ニュームーン」みたいな作品になるのだろう。女性である私の目から見ると、憤懣やるかたないのだが。
このベラの描き方が要するに「ニュームーン/トワイライト・サーガ」に対する私の全ての不満につながっているわけである。
しかしですね、私は思ったのですよ。
こんな、私から見るとつまらないヒロイン像のベラの映画がアメリカで大ヒットするというのは、この映画を見ている観客達がベラをひとつの理想として憧れているからに違いないと。
「ニュームーン」を見るメインの世代というのは若い、おそらくがティーンのはずで、そんな彼女達が心の底で望んでいるのは、男性達(はい、複数です、ここ)に愛され、ひたすら守り抜かれる女性であるベラのような境遇なのかなって。
自らが戦うことはなく、ただ彼の愛に甘えてればいいなんて、そりゃ確かにぬくぬくと幸せには違いないです。
でも、だったら、今や死語となったけれど、ウーマンリブで培ってきたはずの女性の権利って、一体何だったんだろって。
もちろんこれはアメリカの話でね、男性と同じ権利を主張するためには男性以上に働かなくてはならなくなった女性のあり方に、アメリカの女性は少々、いや、かなり、お疲れ気味なのかもしれません。だってヒラリー・クリントンを見ると、時に痛々しく思ったりしません?
この半世紀程の揺り戻しが今アメリカには来てるのかな、という気がします。
自分はごく普通の女でも、素晴らしい男性に選ばれて結婚しさえすれば、今よりもステイタスが上の暮らしができて幸せな一生をおくれるんだ(いわゆる玉の輿ね)と女性が無邪気に信じることができた時代がアメリカは懐かしいのかもしれません。
アメリカと、そしてヨーロッパはね。
日本は生憎というか残念ながらというか、女性の地位がまだそこまで高くなっていないので。
相変わらず、結婚さえすれば幸せになれるという幻想が盛んですからね。特に最近では「婚活」なんて言葉が生まれる程。
だから別に「ニュームーン」を見ても特に強く憧れを抱くということがないのかもしれません。結婚したら女性が相手のために自分の人生を捨てるのは、日本においては結構当たり前のことですから。
そこがたぶん、アメリカとは大きく違う点なのでしょうね。
でもこの「ニュームーン」が大ヒットしたということは、アメリカのティーンの女の子達がアメリカ的な価値観に大いなる不満を抱いているということ。アメリカの女の子達は自分で敵に立ち向かうより誰かに守って貰う方がずっと楽だと思い始めているのでしょう。いずれ日本の男の子がアメリカの女の子達にひっぱりだこになる日が来るのかも♪
ここ数年、「ニュームーン」のようにアメリカで大ヒットしても日本ではさっぱり……という作品が増えているけれど、それはアメリカと日本の社会のあり方が全然違ってしまったせいではないかと思うことがよくあります。アメリカでは「家族」の解体と再構成が盛んだけれど、日本はまだそこまでいってない……今でも当然のように「家族」を「家族」という一単位として数えることができるんです。
それは幸せなことなのかもしれません。
その幸せをなくしてしまったアメリカの映画が現在の日本で受けないのは、仕方がないと言うよりも当たり前のことなのかもしれませんね。