「ラブリーボーン」公式サイト
「ラブリーボーン」は「アバター」のように3Dをイメージして作られた映像ではないので、「絵のように美しい」という形容がぴったりである。
ただしその絵はスクリーンという額縁の中でダイナミックに動くものだ。
「アバター」は平面である2次元を立体として見せることで「3次元」、すなわち「3D」の名を得ているわけだが、「ラブリーボーン」が2次元のスクリーンの中に取り入れたのは3次元を超えた4次元の要素である「時間」である。ピーター・ジャクソン監督は映像の中で「時間」を自由自在に操ってみせてくれたのだ。
それはフラッシュバックとして過去の出来事を現在に持ち込むのとはまた違う。数ヶ月とか数年とか、本来長大な時間の経過と共にみられるべきである変化を一瞬の内に見せてしまう――それが「ラブリーボーン」でPJ監督がやりたかった事なのだ。
もちろん現在の技術で現実の植物の成長を微速度撮影(こま落とし)することで数ヶ月から数年という時間の経過を数秒で見る事はできるわけだが、しかしそういう定点観測の記録映像はやはり動きの滑らかさに欠けるので自然な動きには見えないものだ。見ている人間の脳が映像の動きが飛んでいる部分を勝手に補完してくれるからあたかも「動いているように見える」だけであり、実際のコマを見ればそれらの動きはてんでばらばらなはずなのである。
「ラブリーボーン」にはそれがない。
広い広い大自然の風景も、その中に置かれた人工物も、ごく自然な流れで一瞬の内に数ヶ月や数世紀の時を経てしまう。
それはまるで乱れがなくあまりに美しい映像故に、ついうっかり背景として見過ごしてしまいそうになるけれど、しかしこの映像こそがピーター・ジャクソンのやりたかった事、「ラブリーボーン」の見どころなのである。
ダイナミックな時間の経過を美しく表現すること――そのためにCGIというかVFXをフルに利用したのがこの作品である。
そしてその時間の経過が現実にはあり得ないものだからこそ、主人公のスージーがいる世界がこの世のものではないと、観客に痛い程伝わってくるのだ。
スクリーン一杯に広がる映像の美しさを観客が全身全霊で受け止めて、初めて「ラブリーボーン」は心打つ作品となるのである。ただストーリーを追うだけの作品ではない。「アバター」同様、映像そのものに価値があるのである。
「ラブリーボーン」は「アバター」のように3Dをイメージして作られた映像ではないので、「絵のように美しい」という形容がぴったりである。
ただしその絵はスクリーンという額縁の中でダイナミックに動くものだ。
「アバター」は平面である2次元を立体として見せることで「3次元」、すなわち「3D」の名を得ているわけだが、「ラブリーボーン」が2次元のスクリーンの中に取り入れたのは3次元を超えた4次元の要素である「時間」である。ピーター・ジャクソン監督は映像の中で「時間」を自由自在に操ってみせてくれたのだ。
それはフラッシュバックとして過去の出来事を現在に持ち込むのとはまた違う。数ヶ月とか数年とか、本来長大な時間の経過と共にみられるべきである変化を一瞬の内に見せてしまう――それが「ラブリーボーン」でPJ監督がやりたかった事なのだ。
もちろん現在の技術で現実の植物の成長を微速度撮影(こま落とし)することで数ヶ月から数年という時間の経過を数秒で見る事はできるわけだが、しかしそういう定点観測の記録映像はやはり動きの滑らかさに欠けるので自然な動きには見えないものだ。見ている人間の脳が映像の動きが飛んでいる部分を勝手に補完してくれるからあたかも「動いているように見える」だけであり、実際のコマを見ればそれらの動きはてんでばらばらなはずなのである。
「ラブリーボーン」にはそれがない。
広い広い大自然の風景も、その中に置かれた人工物も、ごく自然な流れで一瞬の内に数ヶ月や数世紀の時を経てしまう。
それはまるで乱れがなくあまりに美しい映像故に、ついうっかり背景として見過ごしてしまいそうになるけれど、しかしこの映像こそがピーター・ジャクソンのやりたかった事、「ラブリーボーン」の見どころなのである。
ダイナミックな時間の経過を美しく表現すること――そのためにCGIというかVFXをフルに利用したのがこの作品である。
そしてその時間の経過が現実にはあり得ないものだからこそ、主人公のスージーがいる世界がこの世のものではないと、観客に痛い程伝わってくるのだ。
スクリーン一杯に広がる映像の美しさを観客が全身全霊で受け止めて、初めて「ラブリーボーン」は心打つ作品となるのである。ただストーリーを追うだけの作品ではない。「アバター」同様、映像そのものに価値があるのである。