「ハート・ロッカー」(公式サイト

今日のアカデミー授賞式の前にどうしても見ておきたかったので駆け込みで見てきました。
体調があまりよくなかったものだから、主演のジェレミー・レナー君が出てきて一活躍した直後あたりでトイレに行くハメになってしまい、そのせいで10分ぐらい話の筋がとんでしまっているのだけど、でもこの作品はストーリーを追うことはそんなに重要ではないので、その後の展開に頭をひねるということもなく淡々と見続けることができました。

淡々というのは描写のスタイルのことでね、言葉を換えればドライとかクールとかドキュメンタリータッチとかそういう意味になります。できごとを時間軸に沿ってありのままとらえている、というスタンスですね。

で、そのできごとがここでは「爆弾処理」なわけで。

同じ題材を日本で作ったらどれだけお涙頂戴でベタベタな映画になるやら、想像するだに気色悪いでございます。
「帰ってきたら渡したいものがあるんだ」
とか
「この仕事が片付いたら二人で故郷に帰ろう」
とか、果たせない約束を交わして死地に赴くキャラに死亡フラッグ立ちまくりでさぞや壮観なことでございましょう。そんな映画見たくもないけど。

幸い「ハート・ロッカー」にはそんなシーンはありません。
「あー、この人死ぬな~」
と思うキャラも無論たくさん出てくるのですが、皆さん死ぬ時無言ですから。いや、何か言ったかもしれないし悲鳴も上げたかもしれないけれど、そんなものは爆音にかき消されて聞こえない。一瞬の油断、僅かな判断の遅れ、或いはたまたま運が悪かっただけで、人の体は爆弾で四散したり爆風の衝撃を受けたりして、生命を失う。今生きて話をしていた人が、振り向くともう額から血を流して死んでいる。そのくらいの呆気なさで人が次から次に死んでいくのです。

次は自分かもしれない。

メインとなるキャラクター達の目には常にその言葉が浮かび上がっていましたよ。

次に死ぬのは自分の番かもしれない。

普通はその自分の内側にある死への恐怖と戦って打ち勝ってヒーローに成長する姿を描くものなのですよ、映画って。だって、それはごく普通の反応ですからね。普遍的なテーマを扱う映画には普通の反応がふさわしいです。

ところがこの「ハート・ロッカー」は違う。

それが舞台となった場所の特殊性なのか、主人公の「爆弾処理」という仕事の特殊性なのか、はたまた監督自身の特殊性なのか――この中で私に理解できるのは監督の特殊性でしかありませんが、アメリカ人の観客には恐らく自分達の軍隊が赴いた場所の特殊性で共感を得たのでしょう。

とにかく、「ハート・ロッカー」の主役であるジェームズ軍曹は、爆弾処理する時にいちいち死の恐怖と戦ったりなんざしないのです。

ってゆーか、1分1秒を争う爆弾の解体処理の最中にそんな恐怖なんぞ感じてる暇なんぞないんでしょうな。

彼はただ黙々と任務を果たす。

神に祈ったり、家族の安否を気にかけたり、死の恐怖を追いやろうとしたり、勇気を奮い起こそうとしたりといった無駄な事は一切せず、限られた時間の中で起爆装置を探し出してそれを爆弾から外すという一連の作業を効率よく進めていくだけなのである。

かといって、彼が自分や他人の命を無駄に危険にさらしたがっているわけではない。

他人の目から見ればジェームズが好んで危険に飛び込んでいってるように見えるかもしれないが、ジェームズにとっては自分が爆弾から起爆装置を外すことができれば、それが自分と他人の命を守るための最善の方法だと分かっているからなのだ。他の処理方法よりも、自分の処理が一番安全で確かだから、時間の許す限りはその方法でチャレンジするだけなのである。

言ってみれば、ジェームズは爆弾処理をしている最中だけスポック(「スタートレック」に出てくる感情を表に出さず論理だけで行動するバルカン人と地球人のハーフ)になっているようなものなのだ。

そしてジェームズは、その自分が「スポック」になっている瞬間が、実はたまらなく好きなのである。

感情を廃し論理だけで行動する幸福は、味わったものにしか分からない。

人間はとかく面倒な生き物で、何かをしようとする時それに対して様々な感情が去来してその感情の一つ一つが独自の見解を表明したりする。まあたとえば映画を見ている最中にトイレに行きたくなったとして、「行きたい」と思った瞬間即席を立ってトイレに行くかというとそうではなく、立ち上がる前に「がまんしよう」とか「席を立ったら映画が見られない」とか「他の人の迷惑」とかついいろんな事を考えてしまうというような、そんなことですね。いろんな事を考えればそこに葛藤が生じ、葛藤が生じれば人間の精神には負荷がかかります。

でも精神がただ一点に集中しなんの迷いもなく一心不乱にそのことだけに専念していられれば、そこに葛藤は生じません。葛藤のない精神は「快」の状態で、だからその時行っている作業がなんであれ、その時の状態を「楽しい」と感じるんです。たとえ爆弾処理でもそれは同じなんだと、映画を見ていて思いましたね。

ジェームズが爆弾処理を進んで行うのは、彼にとってそれが楽しい事だから。暑い砂漠で重い装備で死と隣り合わせで肉体的には「快」とはほど遠い状況だとしても、爆弾処理に自分の全知全能を傾けて取り組んでいる瞬間こそが彼にとって人生で最も充実して楽しい時なのだ。

不幸にして彼はその事実に気づいてしまい、そしてその事実が他人には受け入れがたいものである事にも気づいてしまった。

任期を終え、平和で安息が約束された日常に戻ったとしても、そこにはジェームズの心を奮い立たせ全身の細胞が目覚めて沸き立つ程の歓喜に満ちた瞬間は決してやってこない。何故なら、日常には、彼が解体すべき爆弾が、ないから。

彼は危険を愛しているわけではない。
そして家族を愛していないわけでもない。
だが彼にとって最高の瞬間は爆弾処理に関わっている時で、それ以外の時はただただ過ぎるのをじっと待つだけの苦痛の時間でしかないのである。
どんなに愛し愛されていたとしても、彼にとって最高に楽しい時は別の次元に存在していて、愛の力でそこに到達することは不可能なのだ。

だから彼は戦場に戻る。
そこにしか彼のいるべき所はない。
爆弾処理に赴く彼の姿を最後に見た時、まるでシスティナ礼拝堂の天井画を描き続けたミケランジェロのようだと私は思った。

それはまた、キャスリーン・ビグロウの元夫であるジェームズ・キャメロン監督の姿でもあり、ビグロウ監督自分自身の姿とも重なる。

芸術に身を捧げるのは美神に魅入られたと表現されるけれど、戦地に赴き爆弾処理に挑むのは死に神に取り憑かれたと言われるのだろう。

でも恐らく、その時人間の体の中で行われている化学反応は、どちらも同じなのだと思う。

少なくともキャスリーン・ビグロウ監督はそう考えていた。

だからこの映画は、ハードな現場をリアルに描きながら、戦争を芸術のように美しく見せた作品として、人々の心の中に残ったのである。


さて、このあとアカデミー賞の結果はどうなることか……。