「しあわせの隠れ場所」公式サイト
原題の「Blind Side(ブラインド・サイド)」は見えない側とか盲点という意味ですが、ラグビー ・アメリカンフットボールなどで、タッチライン までの攻撃 スペース が狭い方のサイド という意味もあります。主役のマイケルがアメフトの選手なのでダブルミーニングだったのですね。
邦題と「感動の実話」という売り込みで「泣ける」映画を連想した方には悪いですが、この「しあわせの隠れ場所」は実は結構笑える映画でした。もちろん「泣ける」場面もありましたが、全体的には楽しいというか、むしろ小気味いいと言った方がいいような……主演がサンドラ・ブロックだから当然といえば当然なんですが。
でもこの作品のサンドラはコメディエンヌとして観客を笑わそうとしているわけではないのですね。彼女の演じているリー・アンという人物の生き方が常に真剣そのもので、その猪突猛進ともいえる真剣ぶりに見ている側はつい笑みを浮かべてしまうという感じです。
とにかくこのリー・アン、何か見て一つこうと決めたらもう迷いません。
夜道を歩いている黒人の大きな少年が着の身着のままで行くところもないと見て取ると、即刻ダンナ様に車を止めさせ、少年に乗るようにうながし、家に連れて帰って寝場所を与えてあげるんですから! ものすごい勇気と決断力と実行力だと思います。
それで、その結果たとえ家の中のものが盗まれていたとしてもその責任は自分にあるんだから仕方がないと、ビシッと割り切って現実を受け入れる覚悟を決めてるんですからね。生半可なことじゃできません。まさに女傑でございます。
幸い泊めてあげたその少年はとてもお行儀のよい優しい子で、リー・アンの子ども達とも学校で顔見知りだったのでそのまま家においてあげることにしたんですが、昨日までは見ず知らずの子だったのにどうやったらそんなに思い切ったことができるんだろうとほとほと感心してしまいます。
それはその少年、マイケル君のもって生まれた人間的魅力のおかげだったのでしょう。「悪」というものを全く自分の寄せ付けないまま大きくなったなんて、彼の育った環境を見れば奇跡としか思えません。
そういう人間的魅力をマイケル役のクイントン・アーロンは余すことなく表現していました。彼の寂しそうな表情は見る人の胸を打ち、誰でも彼のために何かしてあげたくなるのですから。
実は映画の中でもマイケルのために一肌脱いだ人はリー・アン以外にたくさんいるのですね。彼の見かけと先入観だけで判断する人もたくさんいましたが、そういう人達を説得し、マイケルの人間としての美点をちゃんと見るように促す人もたくさんいて、彼らに支えられていたからこそマイケルがリー・アンと出会うこともできたわけです。そういう部分が丁寧に描かれていて、とても好感がもてました。
マイケルはアメフトができるから周囲の人にちやほやされたわけではないのです。
マイケルは、ただマイケルのままリー・アンの一家に受け入れられ、そして学校で受け入れられるようになった。アメフトができるだろうと期待はされていましたが、しかしその才能だけをもてはやされたわけではない。
そこが見ていて気持ちのよい部分でしたね。
マイケルはまず家族の一員になり、そこから全てが始まったのですから。
血のつながりなんかなくても人間は親として子どもを育てることができる――そう伝える事でこの映画は観客に未来への希望を見せてくれるのです。特に実の親による子どもの虐待が表面化してきた昨今、「子どもは実の親に育てられるのが一番いいんだ」という考え方から「血のつながりはどうであれ、自分を慈しみ育んでくれる親に育てられることこそが子どもの幸せなのだ」という考え方に日本も変わってかなければと思ったのでした。
たとえその子にめだった才能がなかったとしても。
原題の「Blind Side(ブラインド・サイド)」は見えない側とか盲点という意味ですが、ラグビー ・アメリカンフットボールなどで、タッチライン までの攻撃 スペース が狭い方のサイド という意味もあります。主役のマイケルがアメフトの選手なのでダブルミーニングだったのですね。
邦題と「感動の実話」という売り込みで「泣ける」映画を連想した方には悪いですが、この「しあわせの隠れ場所」は実は結構笑える映画でした。もちろん「泣ける」場面もありましたが、全体的には楽しいというか、むしろ小気味いいと言った方がいいような……主演がサンドラ・ブロックだから当然といえば当然なんですが。
でもこの作品のサンドラはコメディエンヌとして観客を笑わそうとしているわけではないのですね。彼女の演じているリー・アンという人物の生き方が常に真剣そのもので、その猪突猛進ともいえる真剣ぶりに見ている側はつい笑みを浮かべてしまうという感じです。
とにかくこのリー・アン、何か見て一つこうと決めたらもう迷いません。
夜道を歩いている黒人の大きな少年が着の身着のままで行くところもないと見て取ると、即刻ダンナ様に車を止めさせ、少年に乗るようにうながし、家に連れて帰って寝場所を与えてあげるんですから! ものすごい勇気と決断力と実行力だと思います。
それで、その結果たとえ家の中のものが盗まれていたとしてもその責任は自分にあるんだから仕方がないと、ビシッと割り切って現実を受け入れる覚悟を決めてるんですからね。生半可なことじゃできません。まさに女傑でございます。
幸い泊めてあげたその少年はとてもお行儀のよい優しい子で、リー・アンの子ども達とも学校で顔見知りだったのでそのまま家においてあげることにしたんですが、昨日までは見ず知らずの子だったのにどうやったらそんなに思い切ったことができるんだろうとほとほと感心してしまいます。
それはその少年、マイケル君のもって生まれた人間的魅力のおかげだったのでしょう。「悪」というものを全く自分の寄せ付けないまま大きくなったなんて、彼の育った環境を見れば奇跡としか思えません。
そういう人間的魅力をマイケル役のクイントン・アーロンは余すことなく表現していました。彼の寂しそうな表情は見る人の胸を打ち、誰でも彼のために何かしてあげたくなるのですから。
実は映画の中でもマイケルのために一肌脱いだ人はリー・アン以外にたくさんいるのですね。彼の見かけと先入観だけで判断する人もたくさんいましたが、そういう人達を説得し、マイケルの人間としての美点をちゃんと見るように促す人もたくさんいて、彼らに支えられていたからこそマイケルがリー・アンと出会うこともできたわけです。そういう部分が丁寧に描かれていて、とても好感がもてました。
マイケルはアメフトができるから周囲の人にちやほやされたわけではないのです。
マイケルは、ただマイケルのままリー・アンの一家に受け入れられ、そして学校で受け入れられるようになった。アメフトができるだろうと期待はされていましたが、しかしその才能だけをもてはやされたわけではない。
そこが見ていて気持ちのよい部分でしたね。
マイケルはまず家族の一員になり、そこから全てが始まったのですから。
血のつながりなんかなくても人間は親として子どもを育てることができる――そう伝える事でこの映画は観客に未来への希望を見せてくれるのです。特に実の親による子どもの虐待が表面化してきた昨今、「子どもは実の親に育てられるのが一番いいんだ」という考え方から「血のつながりはどうであれ、自分を慈しみ育んでくれる親に育てられることこそが子どもの幸せなのだ」という考え方に日本も変わってかなければと思ったのでした。
たとえその子にめだった才能がなかったとしても。