「プレシャス」公式サイト

プロメテウスはギリシア神話で人類に「火」をもたらしたとされる神の名で、いわば人類の文化はその「火」から始まった事になっている。

要するに、今日の人類の生活スタイルは全てプロメテウスのおかげという事になる。文字による情報の伝達と知識の蓄積による文化の集大成の上に私達はあぐらをかいているわけだけど、その最初のきっかけが「プロメテウスの火」なのである。

けれど今日見たプレシャスの家庭には、そんな文化などカケラもなかった。

もちろんプレシャスも彼女の母も祖母も父も友人も言葉は話すし、1987年という時代のニューヨークで電化製品を使ったり公共交通機関を利用したり市の福祉の対象となるのに必要な書類を書いて提出したりといった事をこなして生活していく事はできている。

それにも関わらず、プレシャスを取り巻く環境には「プロメテウスの火」が行き届いているとは到底言えないのだ。

文明を利便性ではなく社会を如何に上手に維持していくかといった側面でとらえるとしたら、プレシャスの家庭は非常に原始的なものでしかない。そこには様々な宗教がタブーとして人類に禁じてきた最低のルールさえないのである。

プレシャスの家庭を見ていると、人類が社会生活を営み始めたごくごく初期の頃ならばこうだったかもしれないと思ってしまう。或いは核戦争か何かでそれまで築いてきた人類の文明がほとんど滅びてしまった後。すなわち彼女の暮らしている「家族」という名の小さなコミュニティーには、人類が数千年かけて築き上げてきた文化というものがほとんど影響を及ぼしていないのだ。

文化だの文明だのというものはごく当たり前のように自分達の身の回りにあって、私達は常にそれを享受しているつもりになっているが、だがどれだけそれらが一般的かつ普遍的に世間に存在していようとも、個人がそれを身につけるためには何らかの学習が絶対に必要なのである。

これを簡単に言うと、子どもは学校に行って勉強しなければいけないということで、だからこそ義務教育という言葉もあるのだけれど、その重要性と必要性が「プレシャス」を見ると痛い程よくわかる。知識は弱者が自分の身を守る武器なのだ。

OK、確かに知識では弱者が強者に力で勝つことはできない。
しかし力でねじ伏せようとする相手に対し、それは間違っていると言うことはできる。
仮にねじ伏せられたとしても、抗議をした事でそれが自分の本意ではなかったことを主張することができる。
そしてその自己主張が、自分を支配しようとする相手から逃れるための第一歩となるのである。
それができるなら、少なくとも心だけは自由でいられる。

子どもが学校に行かなければいけないのはそのためで、人が学ばなければいけないのは自分が他の誰の意志にも縛られない精神の自由を得るためなのである。そしてさらに大事なのは、自分以外の全ての人も、自分と等しく自由になる権利を持っていて、それを侵害してはいけないのだと学ぶこと。人が「プロメテウスの火」を手に入れてからここに到達するまで何千年もかかったけれど、これが現代文明の礎であるならばきっちりと身につけておかねばならないのである。

教育が何より大切なの、この世に生まれて来た一人一人にこれを教えてあげなければいけないからなのだ。

プレシャスの両親はアメリカの社会の歪みの中でその大事な教育を身につけ損なった人達らしい。それは彼ら個人の罪ではないが、その憤りを弱者にぶつけるのは罪である。

そうやって虐待を受けた者はいとも簡単に自分よりも弱い者に対し同じことをする。虐待の連鎖は続く。それが罪だという事を学んだものがどこかですっぱりやめない限り、虐待は繰り返されるのである。

「プレシャス」は個人の悲惨な境遇とそこからの脱出を描きつつ、それを通じて教育の重要性を訴えている映画である。今はまだ日本人にはピンと来ないかもしれないが、だが日本にだって「プロメテウスの火」が届いてない家庭はたくさんあるのだ。実際、子どもの虐待死のニュースは増え続けているではないか?

「プレシャス」を対岸の火と見なしていてはもう遅い。
プレシャスのような不幸な境遇の子どもを生み出さないように、そして虐待の連鎖を断ち切れるように、私達自身がもう一度人間にとって大事な事を学び直さなくてはならないのだ。