「清盛」見てて思うんだけど、どうも制作側が意図して狙っている感動ポイントと私自身が感動するポイントにズレがあるみたい。それも甚だしく。演出が「ハイ、ここで泣いて~」とばかりに仰々しく差し出してくれるシーンのどれもが白けるばっかりで感動できないのはそのせいか。


洋画や海外ドラマばっかり見てる私だけど、日本の作品でも感動のポイントがどこかというのは分かる。普通は物語を読解する事で作者が何を重要な点として伝えようとしているか理解できるからだ。建前で書かれた「感動すべきポイント」がどこかを見抜くのは、読書感想文でいい点とるため必要だったので。


ところが「清盛」ではそれが分からない。私の読解力では通じないというより、そもそも感動すべきポイントが見つからない。登場人物達の演技によって今回の山場がここだと見当は容易に付くが、その場面が何故その仰仰しい演技によって観客に要求される感動にふさわしいのか理解できないのだ。


そうなのだ、「清盛」は視聴者に感動を要求するのだ。あたかもお笑い芸人が舞台で「ここ、笑うところですから~」と言うように。それがきちんとした芸として成立しているならともかく、面白くも何ともないやりとりを延々と聞かされた挙げ句「笑うところですから」と笑いを強要されても困るのだが。


舞台なら日本の観客は優しいし、何より自分が笑いたいと思ってそこにいるわけだから「笑う所ですから」と言われればそうかと思って笑うかもしれない。でも「清盛」はTVドラマだ。「ここ、感動する所ですから」と演出で強要されてもいちいち感動する義理はない。つまらなければチャンネルを変えるだけ。


上手なドラマであれば山場に向かって視聴者の気持ちも一緒に盛り上がっていくよう緻密な計算がなされている。その、気持ちを盛り上げてゆく方法を見抜くのがすなわち読解なのだが、「清盛」の場合どうもその方法が従来のパターンと違っているみたいなのだ。


例えば3日の「勝利の代償」ならば、前半の山場は戦に負けた瀕死の藤原頼長が保身第一の父親の忠実に門前払いをくわされて憤死する所だろう。ところが「清盛」ではその後忠実が息子の死を悟って号泣するシーンにスポットライトが当たるのだ。自分で息子を見殺しにした男が泣いたって感動できませんわ。


このシーン、自分の身の安全のために最愛の息子を見捨てた父親を冷たく突き放して描いているなら納得ができる。そこまでして守らねばならない藤原の「家」をクローズアップしてその時代の残酷さを浮き彫りにするのでも理解できる。でも私が見たところではそんなものに焦点当たってないんだよね。


「清盛」が見せるのは、息子を亡くした父親の純粋な悲嘆なのだ。それはとても哀切なシーンで、美しくさえある。しかし、その息子の死の原因は、父親本人にあるのである。そんな腐れ外道な父親が、悔いる事も自責の念にかられる事もなく、ただただ息子の死を嘆き悲しむシーンで終わっていいのか?!


もちろんセリフとしては忠実が「全て藤原家のためなのだ。許せ」ぐらいはあったと思う。しかしこんなセリフはほんのお飾りだ。そこで國村隼が見せている演技は我が身の安全のみを願う姿であり、間違っても息子の命よりも藤原家存続が大事だからと血の涙を流して耐えている姿ではないのだから。


これまでの物語ならば、我が身可愛さで息子を見殺しにしたような父親に美しく感動的な場面など与えられない。息子を見殺しにした父親に美しい場面が与えられるとするなら、息子を見殺しにすることが父親にとっての最大の自己犠牲であり、それと引き替えに得るものが一種の公共の利益でなければならない


一つ前のツイート読むと、確かに自分が洋画好きだから西欧のキリスト教的考え方が自然に入ってきてるんだなという気がします。日本の場合は自己犠牲が当たり前と思われているのは父親じゃなくって母親の方だからね。母親は我が子を身を挺して守るものとされてるけど、父親はあんまりそうじゃない。


それにしても3日の「清盛」ほど身勝手な父親をドラマの中で大して罰しもせずロクに責めもせずに美化して描いた作品は見たことないけど。これまでは「なんかピンと来ない……」というレベルだったけれど、今回ばかりは「はああああ?!」っと驚き呆れたからね。あまりにも意味不明で。


実は「清盛」って、ずっと父と息子の関係に焦点をあててドラマが描かれてるんだけど、それがなんかこう、どの父と子を見ても何を描きたいのかピンと来ないんだよね。本来描くべき「愛」がさ、実の父と子の間には全然ないのな。生物学的には血のつながっていない養父との間には強い絆があるのにね。


さらにその父と息子の関係を描く上で脚本と演出の間にズレがあるような気もする。本来、忠実は自分のエゴイスティックな行いによって自身の最愛のものである頼長を失うという「罰」を受けてるはずなんだよね。でも演出の段階でその「罰」が忠実が息子を思って嘆き悲しむ「感動」の場面にすり替わってる


そういうズレ、何か違う感動のポイント、そういったドラマ上のおかしな部分には理由なんかわからなくたって視聴者は違和感覚えますよ。自分の心がこうありたいと思う部分にドラマのポイントポイントがヒットして来ないんだもん。期待がことごとく外れたら、誰だってそんなドラマ面白いと思わないよ。


「清盛」におけるいびつな父と息子の関係が現代の日本社会のそれとシンクロすればよかったのだろうけれど、ちょっと特殊すぎて普遍性を持つには至らなかったという感じですね。実父に疎まれるが養父に恵まれるという清盛の設定自体は面白いんだけど、もひとつ深みに欠けるというか。


これは憶測だけど、脚本を書く側は自分の実の父親に対して恐らく「捨てられた」もしくはそれに近い感覚を抱いていて、その強く激しい怒りを「平清盛」にぶつけてるのではないかと。実の父からの愛を受けた実感のないまま育ったメインキャラのあの多さにそれを感じます。清盛達武士だけじゃなく、帝やら上皇やらもそうだし。また、上で書いた忠実なんかは利用価値の高い息子ばかりを可愛がるという形で愛情を表現するので、いずれにとっても大変好ましくない父親像ばかりなのですわ。


そりゃまあ今とは時代が違いますから、現代の理想とされる父親像をあてはめても仕方ないのは分かってますよ。でも普通はもうちょっとこう血を分けた父と子の間の深いつながりにスポットライトあてるでしょう。少なくとも今までの大河ならそうでしたよ。それが今のところほとんどない。これから清盛と息子達の間に育まれるのかもしれないけど。


そのかわり、清盛の育ての父である忠盛はとても立派な人物として描かれていて、この父と子の情愛は結構こまやかなんだよね。でも、やっぱり血を分けた子どもの可愛がり方とは何となく違ってて、清盛を「平家の棟梁」として立派に育て上げるという使命感や責任感の方が勝ってる描写になっている。丁度「ミッシングID」における育ての父と同じような描き方だったけれど、これは実際そういう人を見てないと分からない感覚だと思う。


さて、この父親像の描き方を見ると、脚本は完全に息子視点なわけですよ。中心の世代が父親との関係を上手く築けないでいる息子達ですからそれでいいと思うんですが、脚本段階での息子達は父親に対してたいへん苛烈ですし、実の父親側は何故かこう全員いろんな意味でダメオヤジ。ものすごい対立構造になってるんです。


それなのに、ドラマでは忠実が息子を思って泣くシーンが妙に美化されている。それすなわち忠実の世代が自分達を見ている視点なんですよね。自分に甘い父親が、自分が同じ立場だったらこう描いて欲しいと思って演出したみたいだと思いましたよ、私は。


あまりに実の父を突き放して描きすぎると、世の中の大勢の普通のお父さんからの支持を失うと心配してこういう描写にしているのかもしれませんが、そのせいで全体として何を訴えたいのか分からない作品になっては意味がないと思うのですが。高校生になった子どもに口をきいてもらえないお父さんは、自分視点で自分が愛情に満ちた優しい父親だなど甘い判断しない方がいいと思いますけどね。口をきかない子どもには、口をきかないだけの理由があるんですから。



まあそもそも「清盛」、登場人物に魅力がないのが致命的欠陥なんですけど。その上当時のまつりごともどういう仕組みなのかさっぱり分からないし。さらに彼らが何歳なのか外見からは全く分からないのが難。この人、今一体幾つでこんなセリフはいてるんだろ?と思う事多し。どうせテロップで名前出すならその横に(○○歳)まで入れて下さいよ、NHKさん。お願いします。