「オズ はじまりの戦い」公式サイト
ただいま日本でも大ヒット中のこの映画、監督のサム・ライミは一般的には「スパイダーマン」三部作で有名ですが、ホラーファンにとっては「死霊のはらわた」の方がずっとなじみ深いのは当然のこと。前の記事で紹介した「キャビン」の元ネタの一つにもなってるぐらい、公開以来カルトな人気を誇っております。
この「死霊のはらわた」がまたサービス精神旺盛な作品でね~。これでもかこれでもかと見てる方が「やりすぎ!」と言いたくなる程ショッキングなシーンを繰り出してくれるのですわ。CGなどない時代の低予算映画ですから特殊メイクなどもチープなもので今見たらそれだけで笑っちゃいそうなのですが、作ってる方は見てる人を怖がらせようと真剣ですからね、そのぐいぐい迫る勢いに気圧されて作品世界にのめりこんだらしめたもの、血も凍る恐怖の展開に翻弄されて疲れ果て……しまいに笑っちゃうかも。だってやっぱり「やりすぎ」なんだもんね。
ま、良くも悪くもこの「やりすぎ」こそサム・ライミの信条、彼の作品の金科玉条といってもいいでしょう。「そこまでやるか!」で終わっておけばいいのに、ついちょっとそれを乗り越えて「やりすぎ」のフィールドに片足つっこんでしまうのがサム・ライミ。それこそが彼のサービス精神の現れなのかもしれませんが。
「オズ はじまりの戦い」にもそれは遺憾なく発揮されております。ここで彼が「やりすぎ」ちゃったのは美術全般。全編にわたり "too much"感満載なのでございます。
冒頭ではジェームズ・フランコが「やりすぎ」のとっても濃いイメージをしょってたち、それ故に彼の周りの人々(実は彼らも充分濃い)から浮いているという状況を表現していたんですが、彼が気球に乗って漂流した先は彼よりもさらに濃い、濃いと言うより毒々しい世界になるんですよね。さっきまで人一番濃かったはずのジェームズ・フランコが今度は普通に見えて、それ故目立つようになるという仕掛け。まあ彼の顔の濃さはそのままなんですけどね。
ジェームズといえば「スパイダーマン」にも出ておりますが、この映画のキャラクターを思い出してくださいませ。ヒーローであるスパイダーマンは赤、ヴィランであるグリーンゴブリンは緑とギラギラするような原色同士がスクリーン上を縦横無尽に動き回って観客を惑乱するわけですが、その印象をそのまま背景にすると、「オズ」で主人公がたどり着いた世界になります。派手というよりどぎつい、優美というより大仰な、目にも鮮やかなというより目に痛い、要するにどこもかしこも「やりすぎ」ちゃった雰囲気に満ちているのですよ。
ただそれらはギリギリの限界で「美」の範疇に収まっているんですよ。バラの花だったら開ききった状態、果物だったら爛熟というところ。次の瞬間には枯れたり腐ったりして醜くなるかもしれないけれど、でも今はまだ美しいというその境界線の中に「オズ」はちゃんと踏みとどまっています。決して「そこまでやらんでも……」には堕さない。みごとなものです。
それは女優さんのヘアメイクや衣装においても同じで、こちらは一歩間違ったら滑稽になるという、その寸前で大輪の花のような美しさを見せつけてくれてます。レイチェル・ワイズもミラ・クニスもミシェル・ウィリアムズも、ここまで節度なく美しさを全面に見せつけるような化粧って、したことなかったんじゃないでしょーかねー。いやみなさん、見てる方がドン引きするぐらい、実に実に美しかったです。
そういうどこもかしこも「やりすぎ」の、過剰が世界の合い言葉みたいな中でたった一人、「ちょうどよい」具合の登場人物がいるんです。それは陶器(チャイナ)でできた女の子。名前がないので便宜上チャイナと呼びますが、原色の世界の中で彼女だけが淡い色しかもたないんですよね。
ま、ちっちゃいのでサイズ的に他の登場人物と並ぶと目立たなくなるから色を白にすることで目立たせようとしたのかもしれないんですが、同じ白でもグリンダのまとうドレスは強烈で光を放つようなイメージがあるのに、チャイナの色はどこまでも柔らかいんですよ。彼女の色合いだけが他と違う。表情さえも異質なんです。陶器でできたお人形のはずなのに、不思議なことに彼女が一番普通の人間に見えます。何一つ、「やりすぎ」の部分を持たないから。チャイナは可憐そのものです。
だから思ったんですよ、「オズ はじまりの戦い」の本当のヒロインは陶器のお人形である彼女なんだと。一番壊れやすい存在であるからこそ、一番守ってあげなくてはならない少女。すなわち昔ながらのヒロインですね。
サム・ライミの描くヒーロー像は誰かを守るために一生懸命になる人だから、絶対そういうヒロインが必要なんですよ。守るべき存在を失ってしまうと、「死霊のはらわた」の続編のアッシュのように暴走しちゃうんでしょう(それはそれでおもしろいんですが)。
「オズ」で主人公であるオスカーが出会う美しい魔女達は彼に守ってもらう必要がないんですよ。彼女達は能力のある強い女性ですから。でもそれだとオスカーはヒーローにはなれないんですね。オスカーに必要なのは自分を頼りすがってくるか弱い存在。そういう存在を命がけで守ろうとすることで、彼は一人前の男に成長していくんです。実はそこに性的要素はなくても構わないわけで。だから守るべき対象が陶器のお人形でも、彼は命をかけて戦えるのでしょうね。それはもはや男というより強い父親のイメージですが。
「スパイダーマン」ではピーター・パーカーは少年的な存在のままで、それ以上成長させることができなかったサム・ライミですが、「オズ」でようやく主人公を自分の納得いくところまで大人にしてやれたって感じなのでしょうか。もっとも「オズ」の中でオスカーが成長してようやく身につけることのできた責任感は、スパイディは最初から背負わされてたものなのでスタート地点から違ってるんですけどね。ジェームズ・フランコの無責任男ぶりがあまりに板についているので、植木等の無責任男シリーズをリメイクするなら彼に演じてもらえばいいと思ったぐらい。
「オズ はじまりの戦い」は続編も決まったそうなので、私としてはきちんと話をつなげてオスカーが無責任にほっぽらかしてきた諸々のことに責任とってほしいと思います。映画を見終わってもそれが気になったもので、楽しかったワリにはすっきりした気分になれなかったのが残念だったもので。ほんと、オスカー、君、「やりすぎ」だっつの!
ただいま日本でも大ヒット中のこの映画、監督のサム・ライミは一般的には「スパイダーマン」三部作で有名ですが、ホラーファンにとっては「死霊のはらわた」の方がずっとなじみ深いのは当然のこと。前の記事で紹介した「キャビン」の元ネタの一つにもなってるぐらい、公開以来カルトな人気を誇っております。
この「死霊のはらわた」がまたサービス精神旺盛な作品でね~。これでもかこれでもかと見てる方が「やりすぎ!」と言いたくなる程ショッキングなシーンを繰り出してくれるのですわ。CGなどない時代の低予算映画ですから特殊メイクなどもチープなもので今見たらそれだけで笑っちゃいそうなのですが、作ってる方は見てる人を怖がらせようと真剣ですからね、そのぐいぐい迫る勢いに気圧されて作品世界にのめりこんだらしめたもの、血も凍る恐怖の展開に翻弄されて疲れ果て……しまいに笑っちゃうかも。だってやっぱり「やりすぎ」なんだもんね。
ま、良くも悪くもこの「やりすぎ」こそサム・ライミの信条、彼の作品の金科玉条といってもいいでしょう。「そこまでやるか!」で終わっておけばいいのに、ついちょっとそれを乗り越えて「やりすぎ」のフィールドに片足つっこんでしまうのがサム・ライミ。それこそが彼のサービス精神の現れなのかもしれませんが。
「オズ はじまりの戦い」にもそれは遺憾なく発揮されております。ここで彼が「やりすぎ」ちゃったのは美術全般。全編にわたり "too much"感満載なのでございます。
冒頭ではジェームズ・フランコが「やりすぎ」のとっても濃いイメージをしょってたち、それ故に彼の周りの人々(実は彼らも充分濃い)から浮いているという状況を表現していたんですが、彼が気球に乗って漂流した先は彼よりもさらに濃い、濃いと言うより毒々しい世界になるんですよね。さっきまで人一番濃かったはずのジェームズ・フランコが今度は普通に見えて、それ故目立つようになるという仕掛け。まあ彼の顔の濃さはそのままなんですけどね。
ジェームズといえば「スパイダーマン」にも出ておりますが、この映画のキャラクターを思い出してくださいませ。ヒーローであるスパイダーマンは赤、ヴィランであるグリーンゴブリンは緑とギラギラするような原色同士がスクリーン上を縦横無尽に動き回って観客を惑乱するわけですが、その印象をそのまま背景にすると、「オズ」で主人公がたどり着いた世界になります。派手というよりどぎつい、優美というより大仰な、目にも鮮やかなというより目に痛い、要するにどこもかしこも「やりすぎ」ちゃった雰囲気に満ちているのですよ。
ただそれらはギリギリの限界で「美」の範疇に収まっているんですよ。バラの花だったら開ききった状態、果物だったら爛熟というところ。次の瞬間には枯れたり腐ったりして醜くなるかもしれないけれど、でも今はまだ美しいというその境界線の中に「オズ」はちゃんと踏みとどまっています。決して「そこまでやらんでも……」には堕さない。みごとなものです。
それは女優さんのヘアメイクや衣装においても同じで、こちらは一歩間違ったら滑稽になるという、その寸前で大輪の花のような美しさを見せつけてくれてます。レイチェル・ワイズもミラ・クニスもミシェル・ウィリアムズも、ここまで節度なく美しさを全面に見せつけるような化粧って、したことなかったんじゃないでしょーかねー。いやみなさん、見てる方がドン引きするぐらい、実に実に美しかったです。
そういうどこもかしこも「やりすぎ」の、過剰が世界の合い言葉みたいな中でたった一人、「ちょうどよい」具合の登場人物がいるんです。それは陶器(チャイナ)でできた女の子。名前がないので便宜上チャイナと呼びますが、原色の世界の中で彼女だけが淡い色しかもたないんですよね。
ま、ちっちゃいのでサイズ的に他の登場人物と並ぶと目立たなくなるから色を白にすることで目立たせようとしたのかもしれないんですが、同じ白でもグリンダのまとうドレスは強烈で光を放つようなイメージがあるのに、チャイナの色はどこまでも柔らかいんですよ。彼女の色合いだけが他と違う。表情さえも異質なんです。陶器でできたお人形のはずなのに、不思議なことに彼女が一番普通の人間に見えます。何一つ、「やりすぎ」の部分を持たないから。チャイナは可憐そのものです。
だから思ったんですよ、「オズ はじまりの戦い」の本当のヒロインは陶器のお人形である彼女なんだと。一番壊れやすい存在であるからこそ、一番守ってあげなくてはならない少女。すなわち昔ながらのヒロインですね。
サム・ライミの描くヒーロー像は誰かを守るために一生懸命になる人だから、絶対そういうヒロインが必要なんですよ。守るべき存在を失ってしまうと、「死霊のはらわた」の続編のアッシュのように暴走しちゃうんでしょう(それはそれでおもしろいんですが)。
「オズ」で主人公であるオスカーが出会う美しい魔女達は彼に守ってもらう必要がないんですよ。彼女達は能力のある強い女性ですから。でもそれだとオスカーはヒーローにはなれないんですね。オスカーに必要なのは自分を頼りすがってくるか弱い存在。そういう存在を命がけで守ろうとすることで、彼は一人前の男に成長していくんです。実はそこに性的要素はなくても構わないわけで。だから守るべき対象が陶器のお人形でも、彼は命をかけて戦えるのでしょうね。それはもはや男というより強い父親のイメージですが。
「スパイダーマン」ではピーター・パーカーは少年的な存在のままで、それ以上成長させることができなかったサム・ライミですが、「オズ」でようやく主人公を自分の納得いくところまで大人にしてやれたって感じなのでしょうか。もっとも「オズ」の中でオスカーが成長してようやく身につけることのできた責任感は、スパイディは最初から背負わされてたものなのでスタート地点から違ってるんですけどね。ジェームズ・フランコの無責任男ぶりがあまりに板についているので、植木等の無責任男シリーズをリメイクするなら彼に演じてもらえばいいと思ったぐらい。
「オズ はじまりの戦い」は続編も決まったそうなので、私としてはきちんと話をつなげてオスカーが無責任にほっぽらかしてきた諸々のことに責任とってほしいと思います。映画を見終わってもそれが気になったもので、楽しかったワリにはすっきりした気分になれなかったのが残念だったもので。ほんと、オスカー、君、「やりすぎ」だっつの!