とりあえず前の記事で怒りはぶちまけたはずなのに未だ憤懣やるかたない「ジャッキー・コーガン」。ブラピもブラピだわ、よりによってこんな映画に出るなんて。彼が主演じゃなければ見に行かずにすんだものを。
しかもそのブラッド・ピットが、わざわざその御尊顔を拝しに行ったはずの彼が、出てこないんだわ、映画始まってもかなりしばらく。
じゃあその間何を見てるかって言うと、顔もたいしたことなけりゃ頭もお粗末そうな男達の会話。この会話の内容がヤツらのご面相とオツムに輪をかけて悪いときたもんだ。
最初はね、コメディかと思ったのよ、その内容とそれに即した再現シーンを見ていて。一応、これ、笑うシーンとして脚本書いたり撮影したりしたのかなって。下品で暴力的で皮肉っぽいけど。
でも笑えないんだ、これが。全くもって、まるっきり!
タランティーノが撮ったなら、下品で暴力的でも笑えるし、たぶん最後にはスカッとするであろう場面も用意されているはず。
コーエン兄弟ならば暴力的で皮肉が効いていても、コメディ作品ならばそれをコメディとして理解できる部分がちゃんとある。あまりにブラックすぎて実際には笑う気になれなかったとしてもね。
ところが「ジャッキー・コーガン」の場合、ブラックコメディにさえなっていないのよ。単に登場人物が粗暴で馬鹿なだけ。会話の内容が馬鹿すぎて「笑う」というレベルに到達していないのだわ。会話している本人達は笑ってるみたいだから彼らにとってはそれがおもしろいのかもしれないけれど、聞かされてる方はたまったもんじゃない。電車とか飲み屋で聞くに堪えない最低な内容の会話を耳にしつつ、席を移動できないので黙って唇噛んで我慢してたことってありません? まさかそれと同じ経験を映画代払ってする羽目になるとは思わなかったわよ!
今更ながらにタランティーノの偉大さに気づきましたよ。なんであれ、彼の脚本と演出はちゃんと笑えるわ。
「ジャッキー・コーガン」の監督、アンドリュー・ドミニク、映画を見てるとタランティーノ風でいこうと狙ってたような気がするんだけど、ことごとく外したような。台詞も映像も音楽も、全てにおいて。やりすぎというより、そもそもセンスが悪いのよ。
一番悪いのは、女性に対する敬意が微塵も感じられないこと。この映画、女性はほとんど出てきません。会話を交わすレベルの台詞があった女性は確か一人だけで、職業は売春。でも、この映画に出てくる男どもの話に出てくる女はほとんどが売春婦だから、その世界観にはぴったりだけど。
要するに、彼らにとって、女は自分の性欲のはけ口でしかないんだわ。
有り体にいえば、こいつら自分達がナニを突っ込む対象として以外に女に存在価値を見出していないのです。
そういう話を実際にしていたのは登場人物の中でも数人だとしてもさ、彼らはほぼ全員が同じ世界に属しているわけで、その同じ価値観が映画全体に漂っているのよね。女は、男がヤリたくなった時にいればいいだけのもの。金で買えればそれでいい。
それが男の本音ですか。
映画見ていてこれだけ不愉快な気分になったことはないわよ。
上の話は一応「ジャッキー・コーガン」という映画作品においてはそう見受けられるという「男の本音」ですが、日本じゃ政治家が従軍慰安婦を是認するような発言してますからね、あんまり変わらないですよね。まるで女は男の性欲を発散させる手段として必要なんだと言われているようだ。女の人格も人権もそこには必要ないんでしょうな。
例えそれが男の本音だとしても、せめてそれを包み隠すぐらいの気づかいがあればまだマシなんですけどね、それがないのが「ジャッキー・コーガン」の最低たる所以。例えばドキュメンタリーならば観客に厳しい現実をつきつけることで新たな視点を与えたり自分を見直したりということもあるでしょうが、「ジャッキー・コーガン」の「男の本音」なんて別に今更改めて教えて貰う必要ないし、教えて貰ったからってどうこうできるわけでもないもん。「だから何?」ってだけですよ。
そういう「男の本音」ってさあ、映画でもドラマでもさんざん見て来たのよ、私達。主に、悪役の振る舞いとしてね。大体、無政府状態の時に男達が徒党を組んで近隣を略奪して回ってると、そういう状況になってますよね。「七人の侍」でも「マッドマックス」シリーズでも何でも見ればいいわ。無政府状態、すなわち国家という概念のできる以前、言ってみれば原始時代からそういう男どもはずーーーーーっと存在してたわけ。つーか、教育を受けなきゃそうなるのかもしれない。
幸い現代は(「ジャッキー・コーガン」の時代はオバマさんの最初の大統領選の頃)国家があって、幸い国民は皆一応教育を受けられることになってるんだけど、その教育をどう生かすかは個人の自由というわけで、いい加減なところで切り上げちゃうと女性にも人権や人格があるということを知らないまま育っちゃうのですね。で、そういう連中がメインの構成員である一種の共同体を舞台にくりひろげられるのが「ジャッキー・コーガン」のストーリーですから、出てくる男達のセリフのほとんどがアメリカの恥レベルで無理はないわけ。こんな男どもの遺伝子なんて、全く人類の負の遺産だわ。
こういう恥さらしで負の遺産の輩というのは、普通、映画だと先にも書いたように悪役ですから、その共同体に属さない三船敏郎とかメル・ギブソンとか、或いはクリント・イーストウッドのようなヒーローに(或いはタランティーノ映画だったらヒロインに)ギッタギタのコテンパンにやられて最後には殲滅させられて終わります。観客はそこで快哉を叫びカタルシスを得るのが常なのですが、「ジャッキー・コーガン」の場合全員同じ共同体の構成員なのでそれがないんですよね。一応タイトルロールでブラピが演じたジャッキー・コーガンが主役ではありますが、彼とて別にヒーローではない。彼は誰かを助けようとするのではなく、単に仕事を請け負っただけ。彼が仕事をやり遂げたからといって、見ている方は目障りだったゴミが片付いた程度の感興しか催しません。
ところでジャッキーにその仕事を依頼した男としてリチャード・ジェンキンズが出て参ります。リチャード・ジェンキンズの常として、最初の方に何気ない顔で現れて最後まで物語りを引っ張る役なのですが、彼だけは他の登場人物と違う服装なのですね。上等なスーツを着て、健康志向のビジネスマンらしくタバコを嫌ったりするシーンがあるのですが、ジャッキーに仕事を依頼している段階で結局は同じ穴のムジナなわけですよ。着ている服や階級が違っても、ジャッキー達の共同体と同じ価値観を持つ集団に属している。このリチャード・ジェンキンズを通じて、観客はアメリカの恥はいわゆる下層階級だけではなく収入がケタ違いに大きい階層にも広く蔓延していることに気づかされる仕組みになっているんですね。それもまあ、「だから何?」ってレベルですけど。何しろ観客の心に訴えるものが何もない映画なので(リチャード・ジェンキンズだったら「キャビン」の方がずっとマシ!)。
ではこの映画が訴えたかったことは何なのか?
それもズバリ、何一つ隠すことなくブラピがラストのセリフで言ってしまってます。ブラピ、この一言が言いたくてこの映画に出たんかいな、と思ってしまった。
それは、要約するならば
「報酬は契約通り値切らず払え!」
ということで、そこだけは私も本当に共感しましたけれど……でも、それって、あったり前のことじゃないですか。正当すぎて何も言えないわ。
それをいちいち映画にまでして訴えなければいけないぐらい世の中はすさんでしまったのかと嘆いてもいいんですが、そのセリフに至るまでのストーリーとほとんどつながらないもんでね、それだけのパワーも湧きません。
一応ラストで現代のアメリカに対する皮肉をこめたセリフを放ったつもりなんでしょうが、どこまで行っても「だから何?」止まりなんですよね。
だって「ジャッキー・コーガン」、美しいものが何もない。
ブラピですら作品の内容にふさわしい容貌になっちゃってて見る喜びが残ってない。選曲も狙った挙げ句外したような曲ばっかりで飽き飽きで、聞く楽しさすらない。何より精神的な美しさというものに欠けている。
ここに出てくる登場人物達は成長の途中で気高さとか崇高さといったものに美を見出すことなく大人になった者ばかり。彼らはそんな、一文にもならないものには洟も引っかけない。大事なのは金だけだから。
そんな醜いものばかり見せつけられて喜ぶのは批評家だけだよ。
映画は美しくなくっちゃ!