偽りなき者公式サイト


これ、随分前に見たのですが(確か3月)、なんとまだロングランで上映中だったのですね。主演のマッツ・ミケルセンのファンがじわじわ広がっているのか、それとも作品のテーマの深さが人の心にしみるのか……。どちらにしてもたくさんの人に見て頂きたい映画です。


さて、これはチラシや予告でさんざん喧伝されているので今更ネタバレにはならないと思うので書いちゃいますが、この作品でマッツが演じるのは人々に性犯罪者、しかも小児性愛だと誤解され、一方的に迫害を受ける男です。日本では「ロリコン」等と呼ばれて「幼い可愛い女の子が好みの人」ぐらいに思われてる場合もありますが、アメリカのドラマを見てると小児性愛者(ペドフィリア)というのは性犯罪者の中でも最も唾棄すべき存在とされてるようですね。それがバレたらリンチにあって当たり前、その挙げ句死んでも誰も悲しまない、ぐらいな扱われようです(ドラマや映画ではね)。


それはデンマークでも同じようで、一度誤解され「小児性愛の性犯罪者」という烙印を押されたマッツ演ずるルーカスは、どんなに潔白を主張しても聞き入れて貰えません。一度人々の彼を見る目が変わってしまったら、彼が何をしようとそれはもう受け入れて貰えないのですよ。例え時間がたって表面上は仲直りしたように見えたところで、「ルーカスは小児性愛の性犯罪者だ」という思い込みは決して周囲の人から消えはしないのです。まさに人間ってそういうもんだよな、と思わされる大変深い作品でした。


とはいえ、そういうテーマって物語にはよく取り上げられるものでね、別に珍しくはありません。何を隠そう「ジャッキー・コーガン」にも出て参ります。この場合は賭場の金をまんまと強奪したヤツが、それがあまりにも上手くいったために自分で「オレがやった」と笑いながらバラしてしまったので(呆れるほどの馬鹿なんですよ。黙ってりゃ絶対バレないのに)濡れ衣でもなんでもないのですが、それを知った周囲の人間が「一度やったなら二度目も絶対やるに違いないと誰でも思う。だから同じ賭場を自分達が襲っても、疑いは間違いなくヤツの方にむけられる。従って実際に襲った自分達の方は安全」という理屈で強盗を敢行するわけですよ。すると、その思惑通り疑いは最初に賭場を襲った人物にのみ向けられて、「そうじゃないかもしれない」という思いはその共同体の誰一人考えもしないんですな。まあ二度目に襲った方もいいだけ馬鹿なんで調子にのって口を滑らしてそこから足がつくんですが。どーしてこんな馬鹿しか出てこないのよ、この映画は!(←まだ怒ってる)


あ、それで「ジャッキー・コーガン」では、二回目の賭場荒らしの犯人は一回目の人物とは違うと知っている人間がちゃんといるのに、それでも一回目犯人への処刑宣告があっさりくだされちゃうんですよね。彼が実際にやったかどうかは問題ではなく、周囲の人が彼がやったに違いないと信じているから、みせしめのためには彼を殺さなければいけないというのがその理由。法に照らすと全く理解できませんが、賭場荒らしのおかげでむかついている人々の荒ぶる心をしずめるためには「最も犯人らしいヤツ」を殺さなくてはおさまらないというわけ。まさしくスケープゴート、生け贄もいいところですな。


まあ、でも、司法の手が及ばないところで、人ってこうなんだろうなと、「偽りなき者」を思い出した次第です。「ジャッキー・コーガン」ではその賭場荒らしはやってなくても前のはやっていたのでどっちみち悪い奴なんですが、「偽りなき者」の場合は完全に冤罪なのであらぬ疑いをかけられたルーカスが本当に可哀相でした。


この映画、見どころはルーカスが受ける迫害のエスカレートっぷりにあるのですが、しかし一番おもしろかったのは彼が性犯罪者であるとのレッテルを貼られるくだりでしたね。別に拷問を受けて無理矢理白状されたとかじゃないんですよ。それでも、何故か、彼がやってもいないことを実際に起こった事のように誰もが信じてしまう。この最初の方の場面が一番恐ろしかったと思います。これも如何にもありそうな話なんですが、現代を舞台にこのように繊細かつ克明に描写した作品は今までなかったかもしれません。


過去が舞台ならあるんですよ。セイラムの魔女裁判を描いた「クルーシブル」。これが案外近いですね、「偽りなき者」。結局のところ、無実の人に罪を被せてつるし上げにする……というのは昔っから行われてきたことで、対象が「魔女」から「性犯罪者」に変わったにすぎないということでしょうか。ルーカスが性犯罪者と決めつけられるに至る過程は、共同体の中で「魔女」が生み出される状況と似ているのではないかとも思いました。


まず、風聞でそういうもの――魔女とか性犯罪者とか――が存在するという事を知り、噂でそれらが危険なものだと教えられる。それらは危険で異端でアブノーマルな存在故、妙に人の心をかき乱す魅力を秘めているので、教えられた人はその事について考えるのをやめることができない。いつの間にかそれらの存在は人々の心の奥底で異様に膨れあがり、人々はおのれの作り出したその異様な存在の影に脅えるようになる。それらは未だ自分達の共同体にはいないけれど、いつかは現れるかもしれない。いや、いつの事かはわからないけれど、きっと現れるだろう。絶対現れるに違いない。もし現れたら、どうやって対処したらいいだろう……。そういう漠然とした不安が形をなさないままにずっと共同体の中にたゆたっているんですよね。


それがあるきっかけを元にある人物に向けて方向が定まると、急速に形を得てその人に対する確固とした疑いへと凝縮します。しかしまだ、この時点では人々はある程度理性的なんです。「疑い」はあくまでも「疑い」であって、真実かどうかはわからないから。


そこで真実を確かめるために、よそから専門知識を持ってる人が呼ばれます。なんでよそからかっていうと、疑わしき人物に対して「友達」とか「嫌ってる」とかの妙な感情を持ってないはずだから公平だと思われているからですね。


ところが、この「よそから」ってのが恐ろしいのですわ。

容疑者に対して何の思い入れも持ってないってことは、自分の野心や欲望のために簡単にその人を犠牲にできるってことなんです。ここでその容疑者を黒とすることで自分のキャリアに箔がつくなら、喜んで踏み台にするってもんですよ。

そもそも容疑者が「魔女」or「性犯罪者」かどうか鑑定してくれ、と呼ばれた時点で「あ、そういう嫌疑がかかっているのか」と気持ちは傾いてますからね。人々の期待(?)に応えるべく、なんとしても容疑者が「魔女」or「性犯罪者」である証拠を見出そうとするでしょうよ。


「偽りなき者」だと、この場面が本当に巧みでね。頑是ない幼女の言ったことを必要以上に重く受け止める園長先生の内面とか、鑑定にやってきた専門家の表面には出さないいやらしさとか(実は小児性愛者はお前の方だろうと私は思った)、言葉に出さないところで彼らがルーカスを性犯罪者としてしまいたい、という理由が伝わってくるんですね。この、明確な言葉に表されない漠とした人々の思惑が込み入っていて、「事を荒立てないためにルーカスをかばったというカドで、あとから人々に非難されるのだけは絶対に避けたい」というものなんですよ。恐らく、かつては性犯罪者達が「事を荒立てたくない」という理由でさんざんかばわれ、犯罪が隠蔽されてきたのを現在のデンマーク社会が深く反省しているという状況があるのでしょうが、ルーカスの仕事仲間が自分が潔白であることを証明するために彼を擁護しないという一種膠着した状況に陥っているのです(全員ではありませんが)。


で、そういう人達がさもつらそうな顔をしてルーカスが実は性犯罪者だった等と打ち明けるものだから、瞬く間に共同体のほとんど全員がそれを信じてしまうのね。最初のキッカケを作った女の子が「あれは本当は違ったの」と言っても、もう誰もその言葉を信じない。何故ならばよそからきた専門家が出した結論の方が信憑性が高いから。


その結果、ルーカスは人間としての尊厳を奪われます。


その後どうなるかはネタバレになるので詳しくは書きませんが、まあ共同体あげてのイジメになることは予測がつくと思います。共同体が「おこってはならない」とピリピリしていたできごとが「おこってしまった」とされたことがきっかけで一種の集団ヒステリーが蔓延するところも魔女狩りと同じものを感じました。


彼の運命がどうなるかは映画を見て頂くとして、この映画はやっぱりマッツ・ミケルセンあってのものですね!


だって、マッツって、次に何が起こるか分からない人なんだもん、出てくるだけでドキドキしますわよ、殴られるのか殺されるのか、それとも相手を殺すのかって。彼の場合、いたぶるのもいたぶられるのも似合うからどっちに転ぶか判断ができないんですよね。それが実にスリリング! しかも痛々しい演技が超上手いし。見ているこちら側が鳥肌立つほどです。


まだご覧になってない方は、是非!

楽しい映画ではありませんが、見ておくべき作品でしょう。