「クロニクル」、これは以前から興味のあった作品なのでいそいそと駆けつけ見て参りました。2週間限定公開だと、うっかりしてると見ない内に終わっちゃいますのでね。

で、見始めてすぐ思ったんですよ「あら、主演の男の子、若い時のレオ君に似てる」って。この一つ前に紹介した記事にも載ってますが、アンドリューを演じたデイン・デハーンって、「タイタニック」以前の、「ギルパート・グレイプ」あたりのレオナルド・ディカプリオを彷彿とさせる面差ししてるんですよね。まだ垢抜けてなくて、子どもっぽさとイモっぽさが同居してる頃の。美少年とかハンサムとかいうキラキラしたイメージは全然伴わないものの、一瞥しただけでも顔立ちが整っているのは見て取れる、という感じ。「クロニクル」のアンドリューもまさにそういうイメージでした。

それだけ綺麗な顔をしていれば、
普通に学校に通ってれば女の子が放っておかないだろうと思うんですが、何故かアンドリューは高校では仲間はずれ。ビデオ(撮影)オタク扱いで、女子には「キモッ!」と蔑まれています。それはアンドリュー自身の性格や家庭環境のせいもあるのかもしれませんが、映画見てるとアメリカの高校生の許容範囲というか同級生を受け入れる間口というのは日本よりずっと狭いんじゃないかと思いましたね。「glee」でもそうでしたけれど、アメフト部とチアリーダーでなければ人にあらず的な部分がとても強いというか。

まあ「クロニクル」ではアンドリューの方にも問題はあって、彼の方から人と交わろうとしないから、周囲は彼が何を考えているか分からず「キモッ!」と排斥するというのはあるんですね。何故アンドリューがそういう態度をとるかというと、家で父親から虐待を受けているから。彼は父親を恐れ、そんな自分を恥じているのですが、そのことを誰にも知られたくないと思っている。だから人と交わらない。唯一の例外は従兄弟のマットで、彼だけがアンドリューの友達であり、また高校生活を様々な面で支える役も担ってました。

ある時まではね。

結局アンドリューにとってはマットの存在が高校生活に不可欠であればある程、
頭が上がらない存在として負い目にもなっていたわけで、心の底では劣等感を募らせていたんですよね。もうこの辺の心理描写、見事の一言。確かによくある設定ではあるけれど、びしびし心の痛みが伝わってくるのはデイン・デハーンの演技力によるものなんでしょうね。もちろん脚本も演出もがよくできていればこそですけど。冒頭のアンドリューの鬱屈ぶりが激しく深いので、クライマックスでの彼の暴走が納得できるし、悲しみさえ呼ぶのです。この図式は確かに「キャリー」に似ています。まあ同じ超能力を扱っている作品だしね。

でも「クロニクル」を最後まで見た時私が思い出したのはスティーブン・キングでも別の作品でした。
それは「クリスティーン」。
監督は影響を受けた作品として「キャリー」の他に「AKIRA」をあげているそうで、確かにアンドリューは鉄雄に近いものがありますが、マットは金田って感じではないです。アンドリューとマットの関係は「クリスティーン」のアーニーとデニスにの方により近いものを感じます。特にマットの最後のセリフがね。

それと、アンドリューと父親の関係は見ていて「ジャンパー」を思い出しました。映画の「ジャンパー」のお父さんはもう少しマシでしたけれどね。映画にはいろいろひどい父親が出てきますけれど、「クロニクル」に出てきた父親像ってちょっと珍しいというか、目新しい印象を受けました。単に暴力的で乱暴なだけじゃないのに、よりひどいっていうね。なんちゅーか、アンドリューの行動に説得力を与えてくれる人でしたわ、いろんな意味で。

アンドリューに比べてマットやもう一人の仲間であるスティーブの内面がほとんど出てこないのは、これがアンドリューが撮影したムービーの記録という体裁をとっているからです。後に撮影はマットがするようになっているんですが、主観は飽くまでマットなんですよね。後半はいろんな場所で撮影された映像を編集で挿入したという形になってるんですが、このやり方はジョージ・A・ロメロの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」が元になってます。「ブレアウィッチ」なんかと違って撮りっぱなしじゃないのがおもしろいのです。あと、「オーメン」も入ってたかな?

SFやホラーを読んだり見たりして育った監督&脚本家の渾身の一作だと思います。今ならまだ関東地方は劇場で上映してますよ。これからの地域の方は期待してお待ちください♪