愛川さん 次々国民的番組、娯楽の天才 最愛ケロンパ守った男気も(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150417-00000000-spnannex-ent


◇愛川欽也さん死去

 愛川欽也さんは36歳の遅咲きだった。71年にTBSの深夜ラジオ「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティーに起用されたことで、若者を中心に人気に火が付いた。下ネタをえん曲に表した造語「パパイヤ(胸)」「ポールとタマタマ」などが流行語となった。

【写真】ギネス世界記録に認定された愛川欽也さん

 若い頃は口八丁、手八丁。よく人に会って“ダベり”、仕事用のネタを仕入れていた。行事を仕切ることが得意で、古い友人からつけられたあだ名は「班長」。元来の司会者気質だった。「あのう」「そのう」と間を取りながら、独特の早口言葉とユーモラスな口調で、お茶の間に知られるようになった。四十路を前に長髪、ジーパンだったことも受けた。

 アイデアマンで思いついたことはすぐに書き留める習慣があった。番組に企画段階から参加することも多く、ユニークな発想を生かして地下鉄初の駅弁など飲食業にも進出した。過熱するテレビ局の視聴率競争に異を唱え、「良質な娯楽」を追い続けた。「アド街」「11PM」「なるほど!ザ・ワールド」。キンキンが提示した「娯楽」に対し、視聴者は長寿番組という答えを返した。

 楽天家の一面もあった。本人いわく「結婚も家庭も全て成り行き任せ」。それでもなんとかなると自負していたのは、豊富な人生経験があったから。

 生まれは東京・巣鴨。幼い頃に父と死別。小学1年で19歳だった姉が嫁ぎ、母と2人の生活を送った。戦時中、小学4年で学童疎開で長野県上田市へ。母親と離れ離れになり、ひもじさと恋しさのあまり東京に戻ってきた。その後、空襲を避け母と2人で転々と疎開生活。家が焼けて終戦後もしばらくは疎開を続けた。新劇俳優になったが、食っていけずに5年で退団。納豆売り、バンドマン、看板職人、靴用のノリのセールス、碁会所や書店経営、コピーライター、サラリーマン暮らしなど職を転々とした。クヨクヨせずに大ざっぱ。自分の性格を母そっくりといい「(人生で)途方に暮れたことは一度もなかった」と語っていた。

 78年11月、前妻と離婚が成立した翌日にうつみと再婚。きっかけは75年に始まったTBSバラエティー「シャボン玉こんにちは」での共演。司会などで6年間コンビを組んだ。

 スポニチ本紙の結婚スクープ記事では「三英子(うつみの本名)を愛してしまったから」と、ストレートな思いを告白した。プロポーズの言葉は「俺についてこい」。うつみに負担を掛けないため、マスコミ対応を一手に引き受ける“男気”もあった。