この作品の邦題である「奇蹟がくれた数式」の「奇蹟」って、実は「きせき」と打ってすぐに出てくる単語じゃないんですね。普通に出てくるのは「奇跡」なんです。それをわざわざ「奇蹟」と通常使われていない難しい漢字を使ってまでして邦題にあてはめたのは、「」という字の持つ

①「あと。物事があった印(しるし)。物事がわれた印(しるし)。せき。http://okjiten.jp/kanji2748.html」という意味を特に強く持たせたかったからでしょう。そこには業績という意味も含まれているのだと思います。

 

ちなみに原題は「∞」。そう、邦題の上にリボンのようにちょこんとのってる「∞」がタイトルなんです。字で表すと「INFINITY」になります。それは主人公のラマヌジャンが身を捧げた数学の世界、彼にだけ見えた全てを数式で表すことのできる美しいヴィジョンを意味しているのでしょう。数学がダメダメな私には見当もつかないですが、それがいかに美しい世界であるかだけは分かります。

 

ラマヌジャンという人には、普通の人が必用とする様々な経緯、数学でいうところの膨大な証明をすっとばして、いきなり定理(でいいのかな?)が見えたのだそうです。それは彼の信じる女神が与えてくれたものだと本人は語っていたそうですが、恐らくこみいった計算は彼の潜在意識が勝手に行っていて、出た結果だけが彼の意識にぽんと浮き上がってきていたのでしょうね。なにしろ大きな数字を扱っても暗算で今のPC並に早く解答を出せた人なのですから。

 

アインシュタインと並ぶ天才と言われながら、アインシュタイン程には人々にラマヌジャンの名が知られていないのは、ひとつには時代のせいもあると思います。時は1914年で、まさに第一次世界大戦前夜。インドは英国の植民地で、インド人は英国人から当然のように差別されていた時代です。

 

そんな時代にラマヌジャンの才能だけを見据え、彼をケンブリッジ大学のトリニティカレッジに招聘したのがG・H・ハーディ教授。映画を見ているとこの方、相当な変わり者と思われていたようで。しかしそれも彼がずば抜けて優秀すぎるので、凡俗の秀才には理解できない故だったようです。というのも彼と仲の良いバートランド・ラッセルは哲学者としても名高い数学者として知られているからですね。バートランド・ラッセルとツーカーで話せるということはG・H・ハーディ教授は彼と同等の知性の持ち主ということですから。で、ラマヌジャンは彼らを凌ぐ、というわけです。もう、どんだけ頭がいいんだか分かんない。

 

で、映画のストーリーって、ほとんどこのラマヌジャンとハーディ教授のトリニティカレッジにおける生活を綴ってるだけなんですが……何故かそれが全然退屈しないんですね。いや、むしろスリリング。この、一種単調な生活を描写しているだけなのにスリリングという展開は、日本の名作まんが「めぞん一刻」に通じるものがあります。五代がラマヌジャンで管理人さんが教授。大団円は結婚ではなく、ラマヌジャンが英国の数学界で認められることになりますが。

 

ちなみにラマヌジャン役はデヴ・パテル、ハーディはジェレミー・アイアンズと双方男ですが、そういうBL的な関係とは無縁です。トリニティカレッッジはもろ、男だけの美しい世界なので或いは人知れずそういう関係にあった人々はいたかもしれませんが、当時はそれ犯罪だったので迂闊に明るみに出せないため、映画の上ではすべて美しい友情として描かれています。そもそもラマヌジャンは新婚の妻をインドに残しての渡英で、そのために日々葛藤し懊悩しているように描かれているので、この作品でスポットライトが当たっているのは夫婦愛なわけでね。

 

このラマヌジャンとその妻ジャナキの、遠く海を隔てながらもお互いを愛する切ない描写がこの作品のひとつの見所になっています。ジャナキ役のデヴィカ・ビセさんがまたお美しいので、こんな新妻残して一人国を出たら、そりゃ誰だって苦しむわ~とひどく納得させられるのですよ。しかも二人の愛を阻むのは遠距離だけじゃなくて姑というのもね、あるあるというか。私なんか往年の朝ドラ「おしん」思いだしちゃいましたよ。息子の幸せのためと言いつつ自分の幸せのことしか頭にない姑って、いつのどこの世界にもいるんですね!

 

またこの作品はG・H・ハーディという偏屈なおっさんがインドから来た青年(ラマヌジャン)の真摯な様子に触れて人間味を持っていくという一種の成長物語でもあるのです。ラマヌジャンの方は、すでに完成されていたものが無理解の中で消耗していくのを見守る形になるので、見ていて大変つらいのですよ。だからせめて、G・H・ハーディぐらいには成長して貰わないとねという部分、観客には大きいです。

 

さてこのG・H・ハーディという、傲慢なんだか繊細なんだかよく分からない教授を演じていたのが英国のいぶし銀、ジェレミー・アイアンズなんですね。私、クローネンバーグの「戦慄の絆」以来彼のファンで、「Mバタフライ」なんかゾクゾクしましたね。最近では『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』で執事のアルフレッドを演じてたのがメジャーですが、もっと記憶に新しいのが「ハイ・ライズ」と「ある天文学者の恋文」。まあ、多彩な方です。先にも書きましたが、傲慢さと繊細さ、それに誠実さを役に合わせていかようにも調合できるという感じですかね。一つだけ変わらない、いえ、変えられないのは頭脳明晰という特徴ですが。

 

情熱ほとばしるデヴ・パテルのラマヌジャンをジェレミーのハーディが時に受け止め、時に受け流し、そうする内に徐々に互いへの理解が深まり友情へとつながっていく過程の描写が見事です。そこにもう一人からむのがトビー・ジョーンズ演ずるリトルウッド。この人はバートランド・ラッセルに「ハーディの想像上の産物」と揶揄されるぐらいにハーディとは腹心の友だったみたいですね。彼らの生活はほとんど全てがケンブリッジのトリニティカレッジの中で営まれているのですが、今から100年ほど前のその様子が映画の中で垣間見られるのがまた興をそそるのです。

彼らはカレッジの中にそれぞれ部屋を与えられていて、そこで暮らしているんですが、役職というか階級によって貰える部屋が違うようで、ハーディ教授ともなるとそこにさらに専任の従者みたいな人までついているんですよね。それでお茶の時間になるとその人(男性)がお盆にティーセットをのせて現れるわけです。さすが、英国! と妙に笑えてくるシーンが何度も繰り返されます。

 

食事は食堂で供され、戦時中でさえトリニティカレッジでは不自由しなかったみたいなのですが、可哀想なのがラマヌジャンで、教義によって菜食主義である彼には口に入れられる物がほとんどなく、町の屋台で野菜を買っては自分で調理して食べていたんです。でも彼のそんな窮状をハーディ教授は知ろうともしないんです。このコミュニケーションのギャップが不幸を招くんですが、お互い数学者なので肉体的なことはほとんど話題にしなかったのも悪かったんじゃないかと……。人間、ごく普通の会話というのも重要ですよね。

 

そんな劣悪な環境下にありながらも、ラマヌジャンは次々に新しい定理を発見(?)するのですが、ハーディはそれを発表するためには証明が絶対に必要だとして譲らないんですね。その証左としてラマヌジャンの定理を自分が証明したものを発表したりする。それを見てラマヌジャンも証明の重要性に気づく。

 

ラマヌジャンが発見したものを「業績」として遺し、後世に伝えたのがハーディなのです。ハーディが偉いのは、それを自分一人の手柄としなかったところでしょうね。あの時代、ラマヌジャンを表に出すことなく自分の業績だと言い張ることなど容易だったでしょうに。まさに英国紳士の鑑! この作品を全体になんともいえない清冽さが漂っているのは、きっと彼のおかげでしょう。

 

数学の深淵と共に往事の英国文化と英国紳士のあり方を伝えるこの作品、10月22日より公開ですので是非ご覧下さいませ。

 

公式サイトはこちら:http://kiseki-sushiki.jp/

 

「英国アンバサダープログラム」運営事務局の「『奇蹟がくれた数式』試写会ご招待キャンペーン」に当選して参加しました。うん、映画を見てその理由がすごくよくわかったわ。