以前にも書きましたが「忍びの国」が全然おもしろくなかったんですね。少なくとも私の心の琴線に響くものは何もなかった。
映画を見ながら「この人達、鼻の穴ばっかり随分目立つな~」と考えているということは、すでに作品の内容から興味が離れているということです。何故でしょう。私これ、最初に説明される「天正伊賀の乱」のくだりにはとってもおもしろそうとときめいて、期待していたはずなのに……。
最初に私が見たと思ったこの映画の構図は、織田信長という巨大な敵の前に伊賀という小国が、むざむざ踏みつぶされないように自分達の才能を生かして反抗するというものでした。まあ、よくある話といえばよくある話で、例えば最近の「キング・アーサー」だってそうでしたよ。パターンっちゃあパターンですが、観客の胸を熱くする物語に大化けする可能性は高いのです。
でも、映画「忍びの国」はどうもそうじゃないらしいというのは見ててすぐに分かりました。これはそういう、小が大をコテンパンにするパターン通りの痛快時代劇にはしないつもりで最初から描かれているのだと。
何故なら伊賀側の登場人物の造形が、鈴木亮平さんの平兵衛を除き、全然パターンに合致しないから。伊賀の人々、すなわち忍びは、「虎狼(ころう)の輩」と呼ばれるように、当時の普通の民とはまるで違うとして描かれているのですよ。「虎狼の輩」ぶりを描くことこそが、この映画の目指すもの……のはずなのです、たぶん。
その「孤老の輩」がいかなものかをあぶり出すために伊賀の集の中に配置されているのが平兵衛と、主役である無門(大野智)で、この二人がまた対照的な人物として描かれています。平兵衛がいわゆるコテコテの時代劇キャラに対し無門はわりと現代的で合理的な考え方をするキャラという設定です。平兵衛の方は伊賀を統括する十二家評定衆の一人、下山甲斐の長男で、侍の身分であるのに比べ無門は下人という格差もあります。ただし無門は。「その腕絶人の域」と称される程腕がたつことになってます(主役だしね)。で、この二人がどっちも伊賀を背負って立ってないんですね。
そうなんですよ、この主役の二人がどちらも自分達の属しているはずの集団から心が離れてしまっているんですよ。一応、陣営的には対立する集団に所属はしているので二人が戦うシーンもあるんですが、ほとんど個人的な恨みによる対決になので、大きな物を背負っての、何かを代表しての戦いとはならないんです。
これ、普通の物語だったら、クライマックスには互いに国の存亡をかけて、とか偉大な父の敵をうって民を解放するためとか、何か使命感をもっての対決になるはずなんですが、「忍びの国」ではそうはならないんです。これ、やりようはいくらでもあったはずなので、パターンの踏襲をよしとせず敢えて避けてそうしたんでしょうね。見てる方の私としては、それじゃあちっとも盛り上がらないなあと思ってたわけですが、まあ普通の時代劇と一線を画したかったのであろう、その試みは偉いと思いますよ。つまんなかったけど。
この二人が精神的な紐帯を持っていないのは、それは伊賀の国が「虎狼の輩」の集合に過ぎないからです。それだけはよく分かりました。「虎狼の輩」と呼ばれている人達は、自分の欲のために得になることしかしないんです。忠義とか友情といった心を通わせられる相手ではないんですよ。そういった観点で「忍びの国」を描いたのは面白いなと思いました。
ただ、「虎狼の輩」どこにも共感を得るところがないし、感情移入もできないので、見ていて心が寒くなるばっかりなんです。そもそも彼らが何を考えて、どうしたいと思っているのかさえ分からない。だから十二家評定衆のおっさん達を眺めていても、鼻の穴にしか目が行かない。
しかもその考えが最後に明らかになった時も、あさはかとしか思えず全く感心できない。そんな彼らだから最後には織田軍に攻め滅ぼされても、何の感興も得られない。せいせいしたとさえ思わないんです。蚊をつぶすのと同じこと。
そんな中で無門は完全に別のことやってるんです。彼の関心は、自分の妻を喜ばせることだけ。世間の争乱よりも、妻が大事。でもそれが愛なのかどうか、見ていてちょっと疑問なんですよね。単に自分の夫としての面子をたてたいだけなんじゃないのかと……。
それでもこの二人の夫婦愛が無味乾燥な「忍びの国」の中では唯一、心に響くシーンではありましたよ。
では反対陣営の織田の方はどうかというと、それなりに時代劇っぽいことをやっているようでいて、これも全然違うんですね~。あの時代にプレッシャーに負けておいおい泣き出す主君を可愛いと思って盛り立ててやろうとする荒武者がいるかよ。そういう意味では織田側も立派に現代的に描かれていたのでした。北畠の姫だけが一人時代劇キャラだったのが、かえって異質。総じて、なんか都合良すぎだろ感ばかりが漂ってしまうのが否めなかったです。
まあ、パターン通りの「心が熱くなる」展開をわざと外して作るのが目的だったのなら、上手に仕上がった作品だったのではないでしょうか。映画としては忍術のシーンなどなかなか見応えありますしね。今を生きる人にとっては現実感あふれるおもしろい作品なのかもしれません。