アイロボット ファンプログラムの企画でルンバのモニターに参加しています。
そうしてルンバ960の動きを毎日見守っていると、ああ、やはり人間とは物の考え方が違うんだなとしみじみ思います。
ルンバ、日々学習して動きます。
そうやって効率の良い動き方を模索します。
模索してるんだな、と人間は思うわけですよ、ルンバが何度も何度も同じ所にぶつかってはフリクションで方向転換はかってたりすると。それで昨日と違う動きを今日は見せたりすると、あ、ひとつお利口になったんだな、と。
まーでもそんなことルンバには関係ないわけで。
ルンバ君の便宜を図ってやろうと人間がいろいろ先回りして動いても、ルンバ気にしません。こっちにおいでと誘導しようとしても、来ません。人間がルンバの役に立つのは、エラーを出して動けなくなってる時だけです。
そしてルンバ、人間の思うようにも動きません。ゴミをとらせようと人間がルンバの目の前(と思われる位置)においても、それ、無視して素通りしたりします。それはルンバのゴミを掃き取るブラシが正面ではなく、横の方についているからで、構造上仕方ないんです。仕方ないことは分かっていても、人間としては目の前にあるゴミなんだから、ちょっと曲がって掃除してってっくれればいいじゃん、と思います。最初の内は。
ここで学習するのはルンバでなくて、実は人間の方なんですね。
あ、ルンバはこれはできない。なら、ルンバができるようにしよう。
慣れてくると人間の方がルンバに合わせようとするんですよ。
何故ならルンバは変わらないから。
今のところ、それ以上変わる能力が、ルンバにはない。
ルンバにはルンバなりの効率を求める動き方があって、それは部屋と部屋をまたいで最も長い直線に沿って往復するとか、そういう独自のもの。人間からすると妙な斜めの動線をいちいち敷居をまたぎながら掃除していくなんてあり得ない光景なんですが、でも掃除してるのがヒトではなくてルンバなので、機械なので、装置なので、いつの間にか許せるようになるんですよ。
ヒトは目によって左右されるという側面が多々あります。そのヒトなりの美しい動きというのが、効率性を上回る場合だってあります。例えば私は洗濯物を干すとき手当たり次第ではなく、シャツの色合いが美しくなるようにわざわざ選んでハンガーにかけていきます。効率は悪いですが、干してある時に見ている物が多少なりとも美しく揃っていると、心がなごむからです。例えば板張りの道場があって、そこに雑巾がけしようとしたら、大概の人は板に沿って動くと思うんですよ。なんとなくそっちの方が効率的に思えるのと、板に沿ってだーっと雑巾がけしていく方が気持ちいいからです。
でもそういうムダな「美」を求めるのは人間であって、ルンバには関係ないことなんですよね。
ルンバは進みながらブラシを動かす。それだけのもの。必用なのは与えられた広い面積を余すことなく動き回ること。スムーズに無駄なく動くのが効率の良さではなく、掃除のできない範囲を残さない。こっちの方が重要なんです。だから人間の目にはムダと思える動きを何度でも繰り返す。そういう物なんですよ。物だから、人間とは相容れない。物は人間に合わすことができないから、人間が物に合わすしかないんです。
そう思っていると『エイリアン:コヴェナント』に出てくるアンドロイド、デヴィッドの気持ちというか心というか、何故そういう行動をとるのかというのが理解できますね、人間には理解できないんだと。だって、あれ、物なんだもの。
もうね、リドリー・スコットがすごいと思うのは、あの映画に出てくるアンドロイドの原型が第1作の「エイリアン」からびたっと決まっていることですよ。人間と同じ形をしていても、あれらは結局、物。ヒトと同じ論理では動かない。物にはその物なりの論理があって、それはヒトには計り知れない。これは真理です。科学者も政治家も、人類は全員リドリー・スコットとジェームズ・キャメロンの映画見ておくべきですよ。どうせその考え方の元となってるSFは読まないんだろうから。
『エイリアン:コヴェナント』、私には「エイリアン」の前の物語というよりも「2001年宇宙の旅」で私達が見たいと思っていた続編を見た気分になりました。おもしろいですが、見た後、心が荒みます。
あれは、デヴィッドを美しい人間の形に作ったのが悪いんです(そういう主旨の有名なSFの短編もあるんですよ)。もうね、アンドロイドは作っちゃダメ。人間、どうしても人間型のものは美しくしたくなるから、ロボットはヒト型にしちゃダメ! もうルンバみたいにね、美しいけどヒト型ではない○の形でいいんです。
ああ、そういう意味じゃ「スター・ウォーズ」のBB8って、完璧なんだなあ……。
目指すべき形はそれ! ルンバはきっと、BB8の遠い祖先にあたるんですね……。