『アベンジャーズ/エンドゲーム』とスーパーヒーロー映画に見る<継承>の精神(Rolling Stone Japan) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190504-00030761-rolling-movi @YahooNewsTopics
>3時間の超大作となった『アベンジャーズ/エンドゲーム』。この映画を経て、マーベルは大きな望みを託した一つの“時代”に結末をもたらし、大成功を遂げた。今後、どのような変遷を遂げて行くのだろうか?
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『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、“アベンジャーズ・サーガ”(もしくは“インフィニティ・サーガ”)の終わりであり、マーベル・シネマティック・ユニバースの初期作品を思い起こさせる、非常に大きなスケールを内包した映画である。トニー・スタークが世界を救い、夜に溶け込んで行く前、ブラック・サバスの歌詞である「俺がアイアンマンだ!」という一節を引用する。そしてすべてを始めた男は、大きな瞬間を手にするのだ(こちらの記事にあるように、スタークがオリジナル・スーツを作り上げ、最後の幕引きを迎える直前に、オーディエンスが聞くのはこの言葉だ。それは2008年の、あらゆるものが誕生したあの時を思い出すだろう)。それは、これまでのキャラクターが、幾度となく「アベンジャーズ・アッセンブル!」という声がけで見せた姿を彷彿とさせるし、その情景こそが、ファンがコミックをめくる手を止められない理由だろう。
笑い、涙、死、仲間との協力、キャプテン・アメリカのボディラインをからかうジョーク、ファンが求めていた女性のスーパーヒーローグループの登場、セーターに身を包むハルク、飲みすぎてメタボリックな体型になってしまったソーなど、ありとあらゆる要素が詰め込まれている。またこの人気シリーズの終焉は、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』にも結びつく――幾度も夕暮れを乗り越えていた――激しい興奮をもたらす代わりに、ゆっくりとしたスウィング・ジャズに合わせてダンスをするような、美しく雄壮な気持ちを与えてくれると言えよう。
しかしながら、 大ヒット中の本作は、スーパーヒーロー映画に一つの終わりをもたらすであろう。また11年という長い時間は、あらゆる文化から生まれたサブジャンル作品、そして映画製作の方法に、それぞれ新たな息を吹き込むのに十分な期間であった。マーベル・スタジオの社長であるケヴィン・ファイギ氏による実験的な取り組みは、業界全体を揺るがしたと言える。MCUの様々な作品がエンディング後のシーンを必要とした。観客はみな、ストーリーを多元的に理解したいのだ。オリジナルの『X-MEN』がスーパーヒーロー映画をシリアスな内容にできることを見せてくれたし、クリストファー・ノーランによる『バットマン』三部作は、自らの物語に忠実でいながら、作品作りができることを証明した。そしてMCUは、すべてになることができる、と提言している。アクション映画、スペース・オペラ、陰謀スリラー、バディ・コメディ、犯罪もの、戦争もの、 職場のコメディ、神話が詰め込まれたファンタジー、シェイクスピアの悲劇、など。それらは一つの知的財産から生まれたものであり、そこから、1000ものキャラクターの冒険活劇へと花開いて行ったのだ。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、それらすべての物語と、これまで語られてきた歴史を、一つの大きな枠組みに収めようとしている。最初の30分は、ただのフェイントでしかないと思ってしまう。登場人物は、指の動き一つで宇宙の半分を消し去ったサノスを見つけるが、彼は、違う惑星で怠け者になっていた。その上、自分が破壊したものを元に戻す方法が、何もないことに気づく。そのうち1人のメンバーが、サノスを倒す。5年後、アントマンが現れ、パッと聞きだとめちゃくちゃに聞こえる、量子世界とタイムトラベルについて語り始める。「まだ、チャンスがあるとしたら?」と尋ねるのだ。はじめは懐疑的であったが、科学的な検証とともに、「塵になっていないメンバーと共に時を遡ろう」というアイデアになる。そして物語は、MCUがまだ描いていなかった過去をさかのぼり、サブプロットをすべて回収していく、という流れになるのだ。
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で受けたショックを思い出して欲しい。この映画の黒い面を持った兄弟である同作は、あなたが好きだったキャラクター、そして名の通った有名なキャラクターが、あなたの目の前で消えてしまったことを覚えているのではないだろうか? そしてエンドロールを迎えた時、あなたは皮肉にも、「これは詐欺か?」と思ったかもしれない。
しかし『アベンジャーズ/エンドゲーム』は違う。運命を変えることが予想されているが、今回は駆け引きが大きい。例えば所属しているタレントの契約が、ようやく満期を迎えたような駆け引きだ。その犠牲に晒された者は永久的、あるいは半永久的と感じられるような消え方をする。馴染みのある顔が戻ってくる分だけ、馴染みのある顔が、出口に向かう。誰が復讐を果たすのか、“フェイズ4”では誰がマーベルを牽引して行くのか、松明は彼らの手に渡ったのだ。監督のルッソ兄弟は、物事に観客の興味を寄せ集めながらも、それらを上手く動かす能力に長けている。彼らは映画製作者として、タイムトラベルの連続や、人々の目に移る宇宙がすべてを物語っている時、映像をどのように演出すれば、そこに機知を生み出すかを心得ているのだ。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』がMCUの歴史を振り返り、熱心なファンの知識試しをしてくるか、については驚かなないだろう。そこで重ねられるジョークや、イースターの卵に関する説明に対しても同様だ。おそらく、非論理的で、手を加えられた多様なタイムラインに衝撃を受けることはないだろう。そこで考えることは、スーパーヒーローの基盤となっている人間臭さが、どのように作り上げられて言ったのか、という部分だと思う。物語には、第三幕でチェーホフの銃ともなりえる、代表的なセリフを言う若いキャラクターが登場する(“3000回愛してる”)。ここであなたの閃きが正しいと証明しても、そんなに悪いことはないはずだ。これまで5、10、22とシリーズ作品を重ねてきたあなたは、無意識のうちにキャラクターや、それらを演じていた俳優陣に、親しみを覚えているだろう。Twitterでの推計にも関わらず、マーベル・シネマティック・ユニバースは、西洋文化のその向こう側に到達しているし、長年に渡って継続されていた“サガ”シリーズは抗えないほどに鮮烈だ。一つの完璧により近かった作品を除いて、すべての作品が完璧であるとは言えない。ただこのシリーズが重ねてきた功績と、人々の心に根付いたであろう作品の背景は、悲しくもハッピーな結末を生み出した。
それは私たちが自分自身を見出す瞬間でもあるし、『アベンジャーズ/エンドゲーム 』以後の世界が、どのようになって行くかを垣間見る瞬間でもある。マーベル全盛期の世の中は、コミック原作のストーリーを大ヒット作品に作り変える方法を確立したと言える。『ブラックパンサー』や 『LOGAN/ローガン』『ワンダーウーマン』などMCUの外に目を向けてみると、スーパーヒーローはますます複雑化している。誰がヒーローになるのか、誰がヒーローの物語を担うのか、あるいはヒロイズムはどのように浸透して行くのか、という部分まで、すべての要素における実験的な役割を果たしていると言える。神話におけるハンマー、星と縞柄の盾、そしてアイアンスーツなど、観客がすんなりと受け入れられるようなものであれば、逆に存在しないものであったのかもしれない。
現在では、25本の高額興行収入映画(インフレの調整はしていない)のうち、11本がスーパーヒーロー映画だ。特に、マーベルの映画が今後なくなることはまずないので、5年以内に確実に増加して行くことだろう― ―23世紀まで、この高収入事業を手放すことはないと思われる。新しい『ブラックパンサー』と『スパイダーマン』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の映画は期待通りの映画だ。おそらく、それらは他のサポートを必要とせず、橋渡しであったり、長編映画である必要もないだろう。そして他の競争相手もまた、王冠を狙ってやってくる。『ワンダーウーマン』の続編や、ホラー要素のある『ブライトバーン』など、第三世代の作品が次々に出てくるのだ。ホラー映画や、ウエスタン、SF映画のように、スーパーヒーロー映画業界はルールを無視しつつ、伝統的なやり方を保ちつつ、制作側を満足させ続けるであろう。
ただそうであろうと、なかろうと、スーパーヒーローの映画を見続けることになるだろう。『アベンジャーズ/エンドゲーム』において、マーベルは、一つの終わりと……何かの始まりを教えてくれた。それは、進化なのかもしれない。そしてそれは、非常にうまく継承されていっているのかもしれない。しかしゲームはいずれにせよ、今、変化を遂げていくのだ。
Translated by Leyna Shibuya