#探偵マーロウ 映像も音楽も言葉も全てが美しい。でも物語は難しい。「見ているものが全てではない」ので。思わせぶりなセリフや人物に眩惑される内、観客は自分が何を探していたのか分からなくなる。マーロウと共に迷宮に入り込んでしまうのだ。
今はどうか知らないけれど、かつては推理小説には幾つかのルールがあった。映像化されてもそれは重要で、例えば「全ての手がかりは読者(観客)の前に全て知らされていなくてはならない」というのがある。作り手は決定的な手がかりをそれと知られないようさりげなく配置するのが見せ所となる。
でも最近はそれが曖昧で、特に推理とかミステリであるとかを主張してない作品だと後出しで、時間巻き戻したりして「実はこんな事やってましたー!」的な見せ方をする作品も多い(『サーホー』なんかまさにそれ)。それをやられちゃうと観客はそれまでの経験が適用できないため煙に巻かれてしまう。
探偵マーロウ は、たぶん推理小説や映画にさんざん慣れ親しんだ人間(私みたいなタイプ)を翻弄するのが目的で作られた作品なんだろう。事前情報入れずに見に行って、あれ? こんな作品チャンドラーにあったかなあと思いつつ台詞回しがあまりにチャンドラーっぽいので忘れただけかと思ってたのだが さっき公式サイト読んだら別人の作品でした。ああ、過度なチャンドラー味はそのせいかと納得。二次創作にはありがちですね。そう思うと映画の雰囲気が過剰なフィリップ・マーロウなのもそんな気がしてくるから不思議。リーアム・ニーソンははまり役でかっこよかったですけどね。彼、米国人じゃないけど
事件は1939年設定で、映画もそういうテンポ感ですすむので、ワリと何も起きないまま上流階級の怪しい雰囲気と匂わせの情事(つまり何もない)だけで話が進むのでなんぼ台詞回しが気取ってても眠くなります。実際寝ました。そのせいで肝心な所が抜けたのかもしれませんが、話は唐突に進み始めます。
一応、手がかりは全部出しておきましたからね、というエクスキューズを見つつ、登場人物の告白で細かな事件の犯人、大元の事件の犯人も分かるのですが、最後の最後までピンと来ないのは「何故そんな事件が起こったか」なんですよ。つまりね、動機が分からないの。普通は金か嫉妬なのに、違うから。
そしてその動機が、たぶんチャンドラーなら書かなかったもの。この作品が今作られた理由でもある。 まあ最後まで見て納得できるかと問われると、あたしゃ納得できなかったですね。そこにもっていくだけの材料がなさすぎるんだもん。無理矢理こじつけたとしか思えない。俳優陣は見応え合っただけに残念