みなさん、こんにちは。じゅっぺちゃんです。


このお話は、「大地保育ものがたり」以前の塩川家の戦前1937年(父満鉄へ転勤)〜1946年(敗戦~満州難民~引揚~帰国)のファミリーヒストリーです。


《あらすじ》

国鉄に勤務していた父親が満鉄勤務を命ぜられ、まず単身赴任で1937年(昭和12年)満州に渡りました。


翌年1938年(昭和13年)家族も全員渡満しました。


1945815日・・・日本の敗戦。

それから国民党軍(蒋介石)と八路軍(毛沢東)の中国内戦に巻き込まれて満州難民となって苦労の末・・・引き揚げ。

1946年(昭和21年)727日に、私の祖父塩川信太郎おじいさんが守っていてくれた父親の実家、現在生活している静岡県富士宮市野中に帰国しました。


帰国後は、生きるためお百姓になります。

1年後の1947年(昭和22年)7月に妹(四女)寿江子誕生。引揚げの途中で亡くなった妹(三女)寿美子の生まれ変わりと皆で喜びました。


そして、敗戦から7年目の1953年(昭和28年)に野中保育園の開園となるのですが・・・。


それ以前の塩川ファミリーは?

いったい どこにいて? 

子どもたちはどこの学校に行っていたのでしょうか?

・・・・・


というわけでこのお話は、

「大地保育ものがたり」以前の塩川のファミリーヒストリーです。





当時、世界最速の弾丸列車。

満州を駆け抜けた夢の超特急あじあ号(パシナ12号)『満鉄社員終戦記録』(出版:財団法人 満鉄会)1996年(平成8年)1126日発行より参考。





「大地保育ものがたり」以前の塩川のファミリーストーリーの始まり


教授・ジュッペちゃんのお父さんの塩川寿介(1903.5.1生まれ~1961.10.3没)さんは、旧制沼津中学卒業後(現在の静岡県立沼津東高等学校)~旧制米沢高等工業学校電気科(現在の山形大学工学部電気工学科)を卒業した1級電気技師でした。



卒業後は旧国鉄に勤務し、戦前の最難関工事と言われる東海道本線の丹奈トンネル工事に従事していました。


その父に新しい命令が下ったのです。

1937年(昭和12年)1級電気技師であった父は、南満州鉄道(以下、満鉄と略す)の電化計画のために満州行きが決まりました。



満鉄在職中の父は、電力課長として転勤が多く、家族を連れて5回も広大な大陸を転勤しました。


父塩川寿介は家族に先駆けて、単身赴任で海を渡り満鉄で仕事をしていました。

官舎が決まって家族を呼ぶ段取りができ。


1938年(昭和13年)5月に、母豊子は兄(長男)寿一(53ヶ月)と、姉(長女)寿々子(210ヶ月)の2人を連れて、博多港から旅客船で出航し、朝鮮の釜山港に上陸し、そこからは汽車で朝鮮を通って満州国奉天駅に到着。奉天駅からはマーチョ(馬車)で奉天市高千穂通の用意されていた満鉄官舎に向かいました。


【兄寿一と姉寿々子のその時の思い出話:

奉天駅からはマーチョ(馬車)で高千穂の家に向かう。奉天駅では赤帽さん(赤帽を被った駅構内専用のポーター)がマーチョを呼ぶのに『トーラ トーラ』と言っていた。

『マーチョは馬の匂いが凄かった』と話してくれた。】







塩川ファミリー在満10年間と引越し5回の地図。父塩川寿介の満鉄勤務の関係で在満10年間に転勤5回の地図を示します。

①奉天ホウテン~②牡丹江ボタンコウ~③奉天ホウテン(2回目)~④通化ツウカ~⑤四平シヘイ・・・・5回の引越しの地図。










朝日新聞(夕刊)2019(令和元年)520日 

『満鉄の超特急「あじあ号」一般公開』








塩川寿平の友人の父田中友太郎さんの体験記を、井上卓也氏が本にしました。

塩川寿平は出版のお祝いに駆けつけました。

2015年(平成27年) 825日の田中ご夫妻との写真です。

著書「満州難民-38度線に阻まれた命-

著者 井上卓也

出版社 幻冬舎

出版年月日 2016525

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満鉄勤務の父親の転勤5回と、満州における子どもたちを中心としたファミリーの歩み


 1938年(昭和13年)5月~1940年(昭和15年)

・・・・・( 1回目の住所)満州国奉天市高千穂通8番地 

本人(次男)寿平生まれる= 1938年(昭和13年)1126日。

ここ奉天市高千穂の家で教授・ジュッペちゃんが生まれました。

兄(長男)寿一(6歳)=高千穂小学校1年に入学。


 1940年(昭和15年)~1942年(昭和17年)

・・・・・( 2回目の住所)満州国牡丹江市日照街3番地6号 

妹(次女)寿満子生まれる=昭和1637日。

ここ牡丹江ボタンコウで寿満子さんが生まれた。

姉(長女)寿々子=聖林小学校1年に入学。

兄(長男)寿一=聖林小学校へ転校。


 1942年(昭和17年)~1945年(昭和20年)

・・・・・( 3回目の住所)満州国奉天市大和区葵町23番地83

兄寿一=平安小学校へ転校

姉寿々子=平安小学校へ22学期より転校

(本人)寿平=自由学園「幼児生活団」卒園

~平安小学校に入学1年生。


 1945年(昭和20年)7

・・・・・( 4回目の住所)満州国通化市龍泉区興隆街13番地

寿一=通化中学校へ転校・・・敗戦により学校なくなる。

寿々子=通化小学校へ転校・・・敗戦により学校なくなる。

寿平=通化小学校へ転校・・・・・敗戦により学校なくなる。

  

1945年(昭和20年)815

 =同居の豊子の母[林つう(49歳)]亡くなる。

寿々子と寿満子が留守番していて、おばあちゃんを看取る。『おばあちゃんの顔からハエが逃げなくなった』

母豊子は~正午、玉音放送を聴きに学校に向かい留守中。

 

1945年(昭和20年)816日 【林つうの火葬】

早朝出かける。通化の火葬場にはすでに火葬用の薪も無く、自分たちでトラックに薪を積んで出かけて火葬する。

  

1945年(昭和20年)926日 妹(三女)寿美子生まれる。

1945年(昭和20年)927日 汽車で四平街市まで脱出。

敗戦により逃避行始まる。


 1945年(昭和20年)8月~昭和2176

・・・・・( 5回目の住所)満州国四平街市若葉区南240番地82


日本の敗戦とともに、たちまち国民党軍(蒋介石)と八路軍(毛沢東)の中国内戦。

四平街市は軍事的に重要な鉄道拠点で両軍の激しい戦闘の中で約1年間の生活。爆弾や銃弾の飛び交う中での満州難民となる。布団と座敷の畳を窓に立てかけ銃弾を防ぐ生活。座敷の床下に穴を掘り防空壕を作り生活する。


床下のパラサイト生活でした。

  

 1946年(昭和21年)76日 

・・・・・四平街~脱出~満州難民の逃避行~無蓋貨車

717日 葫蘆島(コロトウ)大連市の近くの米軍保護地区の引揚者専用の港~リバティ船(米国提供の穀物輸送船)にて


720日 舞鶴港到着。しかし、検疫のために上陸できず。

721日 検便と頭から足先まで全身DDT殺菌剤散布により消毒~真っ白になる。

【注! DDTは今日では使われていません。人体に有害物質だとわかり、健康を害するので、使用中止となりました】


724日 妹(三女)寿美子死亡。

日本に着いたのに下船できず、高温の船室と、消化できないニシンの干物とトウモロコシ粉のパン。母親の母乳も出ず。

写真1枚残さず。生後10ヶ月の妹(三女)寿美子は亡くなりました。

母豊子の慟哭の中で描いたデスクマスク。

鉛筆画が唯一寿美子を残す。


725日 ようやく舞鶴港に上陸。舞鶴にて寿美子の火葬。       

726日 舞鶴発・・・京都駅夜中

東海道~身延線で富士宮へ向かう。


 1946(昭和21年)727日 

・・・・・祖父信太郎の待つ富士宮市黒田123番地(現在の野中東町300番地)の母屋に帰国。皆、疲労困憊の末に24時間ただ眠る。


この日から、塩川ファミリーの日本の戦後が始まります。

そして、 1953年(昭和28年)41日 野中保育園開園となります。






これをもちまして、「大地保育ものがたり」以前の、教授・ジュッペちゃんのファミリーストーリーは終ります。





《むすびにあたって》

【ジュッペちゃんが親しみを抱く大陸育ちの有名人】

なかにし礼 1938年 昭和13年 牡丹江生まれ。

山田洋次 1931年 昭和6年 ハルピン生まれ。

小澤征爾 1935年 昭和10年 奉天生まれ。

宝田 明 1934年 昭和9年 ハルピン生まれ。

藤田紘一郎 1939年 昭和14年 中国生まれ。

赤塚不二夫 1935年 昭和10年 中国古北口生まれ。

ちばてつや 1939年 昭和14年 東京生まれ~奉天育ち。

山内ジョージ 1940年 昭和15年 大連生まれ。

高野悦子 1929年 昭和4年 営口生まれ。


愛新覚羅慧生 アイシンカクラ エイセイ

1938年 昭和13年 満州国生まれ。

【父は愛新覚羅 溥傑フケツ(満州国皇帝溥儀フギの弟)と母は嵯峨浩ヒロ(侯爵家・公家家族)の長女=満州国皇女】  

1957年(昭和32年)1210日没 19歳で天国へ行く。