—じゅっぺ教授の母校創立100周年記念誌の原稿を頼まれて-
じゅっぺ教授の母校は静岡県立富士高等学校です。
静岡県富士市にあります。
1923年(大正12年)県立旧制中学として開校されました。
2022年で創立100周年を迎えるということで、
編集委員の後輩から高校生活の思い出話を頼まれました。
じゅっぺ教授は新制高校10回生で、
1957年(昭和32年)度の卒業生です。
教育小説「大地保育ものがたり」の読者の方には、高校時代のじゅっぺ教授の一面をご報告します。
現在82歳ですから今から65年ほど前のお話です。
********************
改めまして、
題 名:嬉しかった剣道2段に昇段した日!!!
卒業年次:新制高校10回卒 昭和32(1957)年度卒業。
氏 名:塩川 寿平(大地教育研究所所長 元静岡県立大学教授)
私は7歳8ヶ月まで満州生まれの満州育ちです。
昭和20年8月敗戦。満州国通化市にて。
そして、国民党軍(蒋介石)と八路軍(毛沢東)の国共内戦に巻き込まれて満州難民となって1年。
昭和21年7月に父の実家富士宮市へ引揚げてきました。
昭和13年奉天市生まれの私は小学2年生でしたが、難民生活で1日も小学校で学んでいない罰で、なんと小学生で留年。
昭和14年生まれと同期になりました。
そんなわけで富士高10回生と言うわけです。
戦争が悪いのです。
戦争がなければ1年先輩の9回生と一緒でした。
私にとって高校生活3年間はなんといっても剣道部です。
木造の吹きさらしの旧体育館の寒稽古は辛かった。
凍てつく朝5時起床。
身延線で富士宮駅~竪堀駅~富士高~剣道道場へ直行。
気合いをかけます!・・・・・コテ! メン! ドオー!・・・・・。
旧制富士中時代は男子校でバンカラ中学。
剣道部にはそのバンカラ校風の激しい稽古が残っていました。
目をつぶれば 82歳になった今も高校生に戻ります。
写真①をご覧ください。
静岡県東部 高等学校 新人戦で優勝した同期のメンバーは、
石坂栄造(早大)
渡辺定信(東京教育大)
遠藤一史(東大聴講造船工学)
塩川寿平(日本社会事業大~明治学院大学院)へ進学。
文武両道。勉強も稽古もみんな頑張った。
嬉しかった剣道2段に昇段した日!!!
4人とも2段になって卒業した。
当時、高校生で2段になる事は至難だった。
以来、私の人生は『負けるもんか!』の富士高剣道部魂で頑張った。
おかげで静岡県立大学教授で定年を迎えることができました。
現在も剣友会の役員で「OB対在校生の稽古」を見に行く。
その日は、先輩の鬼の8回生・久保田啓嗣・廣住哲英・北古味雄。
9回生・稲葉昌博。私は10回生。そして、私が3年生の時に稽古をつけた後輩の1年生だった
高木亮12回生(教士8段)に会えるのが嬉しい。
高木君はものすごく強く立派になっていて、長い富士高剣道部の歴史の中でも、唯一人、静岡県でも数人しかいない最高段位8段になっていた。
富士市剣道連盟会長もされ、青少年スポーツ振興の功績により叙勲の栄誉にも輝きました。
私と彼の関係は3年生と1年生と言う先輩・後輩の関係でした。
『塩川先輩など怖くて話もできませんでした』と、剣友会誌に高木君の言葉が載っていました。
じゅっぺ教授はとても愉快になり、とても嬉しかった。
なお、
私が3年生の時の剣道大会優勝記念の写真②をよく見てください。
後列の左から2人目の1年生に高木亮君と同期の
12回生戸塚洋二君(東京大学教授・工学博士・ノーベル賞候補者・カミオカンテ文化勲章受章)がいる。
戸塚洋二君は現役で東京大学・理Ⅰに合格し、
大学時代には空手をやり、 4年生になると、
東京大学空手部部長で空手6段と言うから、
昔から根っからの武道好きだったんだ。
写真③をご覧ください。
中央に恩師母校の名物先生“あだ名がタンクさん”
(木本久一剣道部部長・教士7段)稽古は厳しく怖かった。
あだ名の『タンク』の由来は、戦車のように猛烈な勢いで突進してくるからです。
・右に主将石坂栄造・左に副将塩川寿平がいる。
この3枚の写真は私の人生の最高の宝物です。