第51話:ポストコロナの保育
 —民俗学で保育を考えてみよう—

1、『おしん』と民俗学
 
ある講演会で『おしん』の作者橋田寿賀子さんが、
「かつて日本人は貧しかったけれど懸命に生きた。
記憶にとどめておかねば、との思いで『おしん』を書いた」と、
話されました。
『おしん』は民俗学とだと言う学者さんの話も聞いて、
じゅっぺ教授はこのお話からヒントをもらって、
民俗学の視点でポストコロナの保育について、
過去から現在へ、そして未来への大地保育の継承を考えてみました。

2、懐かしい保育は米蔵から始まった
 
1953(昭和28)年に開園した野中保育園の
第1号園舎は米蔵を改築したものでした。
じゅっぺ教授の家は江戸時代から続く庄屋で、
塩川本家の屋敷と田圃で保育園を始めました。

太平洋戦争の敗戦から間もなくのことで日本全体が貧しい時代でした。
そして、私たちの住む静岡県富士宮市野中村は田園地帯で、
開園当初45名の園児の保護者はほとんどお百姓さんでした。
保母さんは3名で始めました。
 
遊具は村の大工さんに作ってもらった木製の滑り台が一基。
そして小な木製のブランコ一基。手作りの砂場。
おもちゃは缶詰の空き缶。古い欠けた木のお碗。
オムツは布おむつ。
赤ちゃんの保育はオンブにダッコ。
年中・年長児たちは近くの小川でよく遊びました。

保護者の方は大根や白菜をよく持って来てくれました。
小学校では運動会も仲間に入れてくれて合同の運動会でした。

私の父塩川寿介が園長でした。
そして母塩川豊子が主任保母でした。
母は崇拝していた自由学園の羽仁もと子先生の幼児生活団を知っていたので、
個性と能力をのびのびと育てる自由がいっぱいの保育をしました。

3、民俗の育んだ「大地保育」誕生

現在、創立70周年。環境は変わりました。
園舎も新しくなりました。
遊び場は田んぼから平らなグランドになりました。
園庭で育てていた山羊さん豚さんアヒルさんもいなくなりました。
おもちゃも缶詰の空き缶から、高価な3輪車やスクーターになりました。
赤ちゃんの布オムツも紙オムツになりました。
保護者の方もお百姓さんは1人もいなくなりました。

環境は時代とともに大きく変わりました。
けれども建学の『大地保育』の精神は変わりません。

大地保育とは、

『太陽、水、どろんこ、土、草や木、小動物などの自然環境を最重視し、大地を土台に展開される自由保育方式の保育の総称です。

大地保育の名称を最初に使ったのは塩川豊子(1915ー1999)で、

1953年に開園した野中保育園の実践を理論化して、

「汲みつくすことのできない宝庫である大自然に挑む中で、
 子どもたちが育てられていく保育」と定義しました。』

4、園歌『野中の子』 1967年 塩川豊子制定
《民俗学としての大地保育の歌『野中の子』》

①ぼくらは元気な野中の子
 大地をふんで遊ぶのだ
 小川とドロと太陽で
 強い身体を作るのだ
 ぼくらは元気な野中の子

②ぼくらは優しい野中の子 
 お花の田圃で遊ぶのだ
 へびも蛙もどじょっこも
 みんなで田植えだどろんこだ
 ぼくらは元気な野中の子

③ぼくらはがんばる野中の子
 柿の木のぼって遊ぶのだ
 かけっこけんかも仲良しに
 歌おう楽しい保育園(こども園)
 ぼくらは元気な野中の子

5、民俗は生き続け、自由保育は続く

時代はコロナ禍中の3密でも『個性と能力を伸ばす大地保育』は永遠です。

①密集保育はダメですね。

でも少人数の自由保育を考えましょう。

②密接保育はダメですね。

でも間近での会話や発声は控えて自由保育を考えましょう。

③密閉保育はダメですね。

でも保育室の換気に気をつけて自由保育を考えましょう。

お天気の良い日は広いお外で遊びましょう。
それから、マスクでしょ。手洗いでしょ。咳エチケットでしょ。
民族の安心安全生活をしっかりと心得て、自由保育を実践しましょう。

6、むすびに

これからも新型感染症や、天変地変はエンドレスでやってくるでしょう。
環境は時代とともに変わっても民俗学を保育に取り入れて、
民族が生き続ける逞しい自由保育の精神を継承しましょう。