第91話:どっきりカメラ出身の故塩川寿一兄の絶筆

―兄は野中保育園第3代園長・社会福祉法人柿ノ木会第2代理事長―

 

(1) 心温まるお悔やみをありがとうございます。

兄は昭和8年2月14日生まれで享年90歳ですが、ほとんど満90歳です。持病の糖尿病や諸々の病気を抱えながらもひょうひょうと元気で過ごしていましたが、

医師の死亡診断名は虚血性心疾患(心不全)で2022年11月20日に亡くなりました。

1人でいるところで亡くなりましたので警察の検死がありましたが、

検死された医師のお言葉「10秒も苦しんでいない。ぴんぴんコロリ」との報告を受けました。

せめてもの私たちの慰めになりました。

 

(2) お葬式は、11月25日=通夜~11月26日=本葬儀

故人の希望と、喪主の一人息子さんの意志を尊重して。

親戚一同・こども園・ふじさん・隣保班の方々の範囲で行いました。

広く呼びかけることはなく、またお香典やお花はいただかないお葬式でした。

会場は藤原葬祭「きずな」(JR富士宮駅南口)で行われ、

最後に皆さんで『野中こども園 園歌』を歌って別れを惜しみました。

 

(3) 兄塩川寿一の絶筆

令和4年11月11日に行われた静岡県立富士高等学校100周年記念(富士ロゼシアター)の同窓会誌53ページの『高校3回生 卒業生だより』が絶筆となりました。

 

タイトル:『夕鶴』 『杜子春』 を母校で 富士高等学校 第3回生 塩川寿一

 

昭和20(1945)年8月15日に旧満州国で終戦を迎え、

昭和21(1946)年7月27日に日本に引き揚げてきて旧制富士中学校2年に編入、

間もなく6・3・3制になり新制高校3年生になった。

 

担当はラジさん(武内先生=父寿介と旧制沼津中学、現在の沼津東高で同期)でした。

部活は演劇部とハンドボール部に参加。演劇部では木下順二作『夕鶴』を上演。

主役の「 与ひょう」役を親友の虎岩病院の虎岩正純君に頼みました。

僕は悪役の「そうど」です。

ハンドボール部は平岩魁先生が顧問です。昭和25(1950)年、高校3年生の時県大会で優勝し、国体やインターハイにも出場しました。

試合の後、先生と一緒に酒を飲み、あげたり吐いたりした仲間もいました。

現在では現役の生徒と一緒に飲むような先生はいないでしょうね。

卒業後、僕は薄田研二主催の『劇団中芸~のちの~東京芸術座』に入団。

文化運動の一つ全国巡回学校公演で『杜子春』の主役。母校富士高の舞台に立つことができました。

その後は当時始まったテレビ番組の制作に加わり、37歳の時に放送作家・シナリオ構成として世に名前が出るようになりました。

代表作は「元祖どっきりカメラ(日本テレビ)」です。

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特記:令和4年11月11日 富友会発行『静岡県立富士高等学校100周年記念誌』の

新制高校3回生の 53ページに掲載された原文のままです。兄寿一は令和4年11月20日に亡くなりました。これが絶筆となりました。

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(4) 故塩川寿一(享年90歳)の履歴

 

1、名前 塩川寿一(しおかわ じゅいち)

2、生年月日   昭和8(1933)年2月14日  

3、生誕地 横浜市鶴見区

4、父母の名前  父=寿介(ジュカイ)・母=豊子(トヨコ) ・6人兄弟姉妹=長男

5、生い立ち   父親の満鉄勤務で一家は満州へ。寿一 5歳3ケ月で渡満。

         奉天高千穂国民学校へ入学。

         父の転勤で、奉天平安国民学校へ転校。

父の転勤で、通化中学へ入学~昭和20(1945)年8月15日終戦。

翌年の21(1946)年7月27日、日本へ引き揚げ。

2年生から旧制「富士中学校」~新制「富士高等学校3年」卒業。

終戦まで天皇陛下のためお国のために死ぬことが最良という教育を受けて、陸軍幼年学校への進学を希望し受験勉強をしていた。

天皇陛下が人間宣言をなされて精神的に大きなショックを受けた。

この時の『神から人間への驚き』がどっきりへの大きな影響となった。

引揚げまでの満州難民の1年間の逃避行中、子どもたちの楽しみはドラム缶でのお風呂だった。

6、結婚     昭和42(1967)年2月14日(34歳)。一人息子を授かる。

7、性格     いたずら好き。趣味も多くゴルフ 競馬 麻雀 スポーツ全般。    

8、日常の生活  野中保育園の3代目園長に昭和63(1988)年に就任。

         社会福祉法人柿ノ木会の第2代目理事長に平成11(1999)年に就任。

園の経営運営にかかわりながらのんびり園庭を歩いては、子どもたちとの遊びを楽しんでいて、童心のままの園長を子どもたちは喜んで受け入れていた。

子どもと園長の周りは賑やかで、保育者たちもジッチャンと慕ってくれていた。

9、気のついたこと

満州避難民の生活で培った家族の絆で兄弟姉妹が助け合うことを学んだ。母豊子の大地保育を兄弟姉妹で支え、それが今の野中こども園と大中里こども園にしっかり受け継がれています。

10 病気について

持病の糖尿病やもろもろの病気を抱えながらもひょうひょうと元気に過ごしていましたが虚血性心疾患(心不全)により亡くなりました。

 

(5) 故塩川寿一さんのお葬式。「通夜」と「本葬儀」のご報告

【写真1 】をご覧ください。

 


塩川本家菩提寺日蓮宗[妙円寺]のご住職伊藤地張様に導かれて、
故塩川寿一さんが住み慣れた自宅を出て霊柩車に乗り、
園児さんや先生方や隣保班の皆さんに見送られながら、
式場の藤原葬祭「きずな」(JR富士宮駅南口)へと向かいます。

【写真2・3・4・5】をご覧ください。

 


弔問の皆さんをお迎えする式場入り口の様子。

 


普通の写真は使わずにどっきりカメラ風の肖像画。
故塩川寿一さんの食堂にずっと飾られていた、
ご本人のお気に入りのイラストの自画像で飾られた祭壇。

 


入り口近くには生前の様子が一目でわかる
写真や思い出の品々が展示されました。

 



【写真6・7】をご覧ください。

 


塩川本家菩提寺日蓮宗[妙円寺]のご住職伊藤地張様と、
ご一緒にお経をあげてくださるお二人の僧侶は、
二人とも大地保育で育った野中保育園時代の卒園生です。
立派なお坊さんになった卒園生にお経をあげていただいて、
故塩川寿一さんも大変喜んでいることでしょう。




【写真8 】をご覧ください。

 


火葬場に向かう前に全員で故塩川寿一さんを囲んで
野中こども園の園歌『野中の子』を歌いました。

1,
ぼくらは元気な野中の子
大地をふんで遊ぶのだ
小川とドロと太陽で
強い身体を作るのだ
ぼくらは元気な野中の子

2、
ぼくらは優しい野中の子
お花の田圃で遊ぶのだ
へびも蛙もどじょっこも
みんなで田植えだどろんこだ
ぼくらは元気な野中の子

3、
ぼくらはがんばる野中の子
柿の木のぼって遊ぶのだ
かけっこけんかも仲良しに
歌おう楽しいこども園
ぼくらは元気な野中の子

【写真9 】をご覧ください。


埋葬の儀。
菩提寺日蓮宗[妙円寺]の塩川本家のお墓に故塩川寿一さんが入ります。
大好きな 大好きな お母さんの豊子さんの隣に骨壷はおかれました。
みんなでお線香をあげて、お題目を唱えてました。
南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経