第93話:大地保育文化苑の始まり①工事初日1月19日
  ーどろんこ保育文化財の保護に立ち上がるー

①「土の子窯=どろんこ窯」の作品が野ざらし
【写真1・2】 をご覧ください。

 

 

 

 


創立1953(昭和28)年の野中保育園(現:野中こども園)に、
1976(昭和51)年どろんこ保育を象徴する保育・教育施設
「土の子窯=どろんこ窯」が誕生しました。
以来2021(令和2)年までの46年間もの間、
どろんこ保育=大地保育の作品を作り続けてきたのですが、
老朽化に伴い「土の子窯=どろんこ窯」は有終の美を飾って壊されました。
跡地は2022年(令和3年)生まれ変わった立派な新築の
「地域子育て支援センターのなか(富士宮市野中東町)」となりました。
その時です。
展示されていた作品の多くは、
園児の作品は園児のもとに届けられました。
保護者の方や職員の皆さんの作品はそれぞれのもとに届けられました。
しかしながら行き先不明の作品の数々は、
野中保育園の発祥の地である塩川本家の元園庭に、
『どろんこ芸術文化苑』と名付けて展示されました。

②じゅっぺ教授は野ざらしの作品を悲しむ
【写真3・4】をご覧ください。

 

 

 

 


じゅっぺ教授が見つけてきたのは、
昔、野中保育園で鳩を飼っていた鳩小屋です。
この小屋は、その後じゅっぺ教授が世話をしていた
ダックスフンドの雑種の保育犬ヘンリーの飼育小屋となって、
園児も中に入って遊んだりしていました。
ヘンリーが亡くなってからは物置となっていました。
そのような由緒ある保育環境論の保育史を持つ小屋も、
今や野ざらしとなっているのをじゅっぺ教授は見かねていたのです。
『よしこれを利用しよう』と。
じゅっぺ教授は一人で ヨイショ ヨイショと引きずって来て、
修理を始めました。

③サアーじゅっぺ教授の得意なペンキ塗りです。
【写真5】じゅっぺ教授はからだが重いので、
     「どっこいしょ!」と石塔の踏み台に乗って。

 


【写真6・7】屋根となるところの高い部分の鉄骨を塗り始めました。
     ペンキが ポタ ポタ ペタ ペタと落ちますが気にしません。

 

 

 






④ペンキが無くなったので初日の作業はおしまいです。
【写真8】ここでペンキは無くなりました。初日の作業終了。

 


【写真9・10】疲れたじゅっぺ教授は家路につきます。

 

 

 

 

 じゅっぺ教授の自宅は保育園創業当時園舎として利用されました。
 じゅっぺ教授の寝ていた部屋の隣は保育室でした。
 写真に写っている黄色い小さなプールは創設当初のプールです。
 創立1953(昭和28)年じゅっぺ教授は中学生でした。
 現在84歳です。
 保育園の歴史は70年になりました。
 ここから卒園児約4,000名が巣立っていきました。
 このじゅっぺ教授の家は江戸時代の庄屋さんだったままの家です。
 戦後間もない頃です。
 日本の国はどこも焼け野原でとても貧しい時代でした。
 慈善事業家であり篤志家であった父塩川寿介と母豊子の手によって、
 塩川本家の母屋と米蔵と果樹園と田んぼと畑が保育園となりました。
 じゅっぺ教授はそのような保育環境の中で育ちました。
 現在は、「(旧)野中保育園」は幼保連携型認定「野中こども園」となり、
 塩川本家の果樹園と田んぼと畑は社会福祉法人柿ノ木会に寄付されて、
 日本有数の自然がいっぱいの広い敷地の理想的なこども園となり、
 「地域子育て支援センターのなか」も併設しており、
 地域の人々に支持され、愛され続けております。