第215話 小さな引揚者は命の限り平和を叫ぶ

 

【特記】このブログ第215話は、

岳南朝日新聞2024.8.14特集= 8月15日向けて

「戦争を二度と繰り返してはならない」に

掲載された塩川寿平の投稿原稿の再掲です。

 

1、 私は小さな引揚者です。その人の人格形成は幼少期の生活体験が大きく影響しす。私は1938年11月26日生まれで7歳8ヶ月まで満州生まれの満州育ち。小さな引揚者です。現在85歳になります。父親は満鉄の1級電気技師でした。母は大正4年生まれで高等女学校の時に日本で「はじめての女性新聞記者(報知社)」となり、後に自由学園を創始した羽仁もと子さんの自由思想に憧れ青春時代を戦前、最も自由であった大正ロマンを謳歌して育ちました。私はその母の自由思想に育てられるとともに、小さな引揚者として満州難民の生活と、戦後の平和運動に参画して育てられたと思います。山崎豊子著「大地の子」の主人公、陸一心(ルーイーシン)は私と同じ1938年生まれです。もしも父と母が引揚の逃避行で亡くなっていたら間違いなく私も中国残留孤児になっていたことでしょう。

 

2、 日本の敗戦1945年8月15日から1年後の1946年7月27日。祖父の待つ静岡県富士宮市野中に引き揚げてきました。帰国後は食糧難の時代。父の実家は江戸時代から続く庄屋(名主)の家で、農地解放後の残された土地で家族全員農業に従事しました。田植えもしました。麦ふみもしました。サツマイモも作りました。豚も山羊も鶏も飼育しました。子どもも手伝いました。働く子どもたちは褒められました。私はドジョウすくいの名人で3~4合(1合=0.18ℓ)取ってきました。母はいつも誉めてくれました。とても嬉しかったのを覚えています。貴重なタンパク質でお味噌汁に入れて家族全員で食べました。

 

3、 敗戦から79年間、日本は一度も戦争をしない国となりました。日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦争ばかりしていた日本国はこの敗戦の反省から、二度と戦争をしない『日本国憲法(昭和21年11月3日公布・昭和22年5月3日施行)』という平和憲法を作りました。平和憲法のおかげで私は日本の歴史の中で最も平和な時代を85歳まで生かさたことを感謝しています。私は52年間「保育・幼児教育学の教授」また「保育園の園長」として教育に従事しました。この子たちを戦争場で死なすために育てているのでは無い。一生懸命育てた教え子たちがみんな幸福な生涯を送ることを願うのは教師として当たり前のことで、私の教師としての信念は「戦場に教え子を再び送らない」と、小さな引揚者だった私は命の限り平和を叫ぶわけです。