クリスマスって美味しいの?
クリスマスは勿論ぼっちの櫻井です。


今日は自我の性質についてお話ししますね。
ここで話す自我の性質は、
個人の自我ではなく、全体から見た自我の話になります。





自我の性質は、誰しも同じ性質を持っています。

この誰しもが持ち合わせている自我の性質を知らずして、
幸せになるということはとても困難です。



自我のことを顕在意識だったり、エゴと呼んだりすると思います。
真理の側面からお話しすると顕在意識と潜在意識、魂は同じ意識として括ります。



私達は本来、全体の1つの動きとして誕生しました。
生まれたての時は、皆1つでした。


個人という自覚が全くなかったんですね。


”自分”、もしくは”私”という感覚すらないのが本来の私達です。


本来1つという個体ではなく、全体と言うことを”知っている”私達にとって、
個体という感覚である、
”私”(自我)と感じることは、

とても不快で、感じたくないと思う存在です。

睡眠をとると、心地よく、、、もっと寝ていたい。
と、なるのは、
自我が完全に消滅している瞬間であり、
全体に戻っている瞬間でもあるからです。

全体であったことを知っている為、個体になった”私”(自我)に対して、とても罪悪感を感じています。

自我の存在そのもの自体が、既に罪悪感なんですね。


それと同時に恐れを感じています。
全体であった事を思い出すと、”私”(自我)が消滅する事を意味するからです。

その為、”私”(自我)は、人生を自分を他人をコントロールしなければ。
と強く思っています。

これは、無意識に反応的に自動で起こるものです。

”私”(自我)は、酷く恐れている存在なので、

反応的に、自分を守りたい!とも思っています。


ねぇねぇ!と声をかけられたら、一番目に起こる反応は「守らなきゃ」です。


とても可笑しな話ですが、”私”(自我)は、
自分の事をとても愛していて、
自分の事をとても嫌っているという性質を持っています。

全体であって1つのだったことを知っているにも関わらず、
個人という個体になった”私”(自我)は、全てを分けて見分けます。

自分の事をとても愛しているし、とても嫌っているので、

自分の事を好きになろうとしても、それは到底敵わない。

その為、
魂や、潜在意識という言葉の概念を作り、
自分以外の愛してくれる、好いてくれる存在がいる。
その理論に納得がいく為にできたのだと感じています。

どう足掻いても、
”私”のことを好きになれないのが”私”(自我)の持っている性質。


”私”(自我)は、全体であったことを思い出したいのと同時に、
思い出した瞬間、”私”(自我)が無くなることが絶対に嫌だと無意識に知っています。

この個人の命が永遠に続くのだ!と考えたい。
誰かが悪いとかではなく、皆平等にそういった性質です。


自分がコントロールしなければと思うが余り、
知識を貪ります。


知識を持ってして、自分も人もコントロールする為です。
”私”(自我)は、それが誕生したその時から常に誰かと戦いつづけるという道しか辿れません。

どれだけ平和主義だと見えても、
どれだけ人のためだと口で話していても、
どれだけ言葉を尽くしていても、


”私”(自我)の持っているその本体には、
自分を守る事が最優先事項で、
自分を含めた他人もコントロールすることで、誰かと戦うということを永遠にループし続けています。


人のせいにする方と、自己否定する方と、
二つに分岐しますが、
自分であろうと他人であろうとやっている事は全く一緒です。


”私”(自我)は、罪悪感とセットで存在するが余り、
何か理由をつけて許されたいと思っています。


人間関係を築く中で、どちらが悪いのか。どちらが正しいのか。

そんな話が良く出て来ると思いますが、

自我の性質は、
自分を守りたい
コントロールしたい
罪悪感
恐怖心

これらを合わせ持っている為、

何か人間関係で摩擦が起きた時、
知識を持ってして、
自分も相手もコントロールしようとします。


表面的に、AさんよりBさんが間違っている!
理論的にAさんの方が正しい!と判断できたとしても、


AさんもB さんもやっていることは、

自分を守りたい
許されたい
罪悪感
恐怖心から来るコントロールで、

それが自我が生まれてから死ぬまでの間、
永遠にずっと続けています。

この自動で起きる無限のループを繰り返して終わります。

これだけをただ自動的に続けています。


よくよく出来事を見てみると、
表面的には勝敗がついているかも知れませんが、
根本的にやっていることは変わりません。


誰かと摩擦が起きた時、

ねぇねぇ!聞いてよ!
あの時あの人があんなことを言ってこんなことを言って、

だから私は許されたいの!

と、ずっと言っているのです。
だから、誰かに話すことで自分の分身を作り、

私が正しいのだ
私は許されたいのだ
を続けています。

これだけを続けているのが、”私”です

土台が皆、これです。



”私”(自我)は、自分の感覚を感じる事が酷く不快なため、
何かに没頭することを常に探しています。


ボーッとしたり、
何もしないという事が、人間にとって難しいのはこの為です。

何かをしていなければ、
とても不愉快さを感じてしまうからです。


それがゲームであれ、
恋愛であれ、
仕事であれ、
学びであれ、
どんな趣味であれ
なんであれ、

何か夢中になる対象物を見つけては、

”私”(自我)のことを忘れます。

不快感をその時は感じません。

しかし夢中になれる事は、永遠ではありません。

そのため、また探究を始めます。

何故?永遠ではないことを探しては繰り返してしまうのでしょうか。


永遠の幸せは今ここにあると覚者は言います。

既に在ると。



長くなったので、また書きますね!
自己否定してしまう自分を許してあげてええんやよ〜


お読みいただきありがとうございました。