僕はかつて自分のことを我慢強い人だと思っていた。

 

痛みにも強かったし、精神的にも我慢が利く方だと思っていた。でも、それは間違っていた。僕は我慢強いのではなくて、自分を麻痺させていただけだった。

 

 

自分の半生を振り返ると、我慢と忍耐の歴史だ。いつも先へ先へと急いできた。

 

今は通過点、今は通過点、と。今を耐えれば次へ行ける、我慢すれば楽が待っている、と。

 

でも、そんな風に生きていたら、気づいたら僕の人生には通過点しかなかった。急いで到達した先には何もなかった。何も苦痛がないだけで楽しい人生にはならなかった。

 

結局僕の中にいつしか「人生とは我慢と忍耐だ」という嫌な思い込みが出来ていたのだろう。

 

いつも余裕がなくて、いつもそんなに楽しくなくて、いつも我慢と忍耐がついて回った。

 

起業して、仕事が順調に回ってからもそうだった。年に5回旅行に行ける暮らしになっても港区のタワーマンションに住んでいてもそうだった。子供が生まれてパパ、パパと毎日懐かれるようになってもそうだった。

 

ただ僕は自分を麻痺させて前へ前へ行こうとしていた。

 

でも、実は向かいたい「前」などどこにもないのだと気づかなかった。仕事も家族もお金も住まいも、ほぼすべてを放り捨ててしまうまで。

 

それでも、僕の手元に命と健康は残った。それで今が楽しめるようになったかというと、まだまだだろう。


しかし今の僕にもポジティブな要素もある。それは、背伸びしなくてすむようになったこと。

 

背伸びせずに「自分はこうあらねばならぬ」という仮面を脱ぎ捨て、自分を受け入れて生きる事。

 

今更になって気づいたが、引きこもりだと公表することは結果的に自分を解放する手段となった。

 

もはやカッコつかないし、カッコつける必要もない。僕は僕でしかなく、虚像はもはや必要ない。

 

前よりもずっとお金はないのに、気持ちの余裕はある。

 

これが天から授かったギフトでなくて何だというのだろう。

 

そうか、今気づいた。僕はいつの間にか一番心の奥底で欲したものを手に入れていた。