『フライザイン』という物語の一節から……
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「人間だれ一人として幸福を求めないものはない。
幸福を求めるということ以上に、あらゆる人に共通した考えはない」
ヒルティ『幸福論』
確かに人は、不幸を厭い、幸せを求めるものだ。すべての行為はここに行き着く。だが、そのことをハッキリ意識する人は多くはないようだ。実際、チグハグな生き方をしていることが少なくない。
金の奴隷になる者。恋人に振り回され、苦しみの日々を嘗める者。名声の魅力にとりつかれ破綻する者……。
本当は、金や恋人などが欲しいのではない。それらを通して「幸せ」が欲しいのだ。安心、満足、充実といった、喜びを手に入れたいのだ。
試しに自分に問うてみればよい。もし「金」が欲しいと思うのなら「それは何故か」、と。
「金があれば、好きなものが買えるから」とある人は答えるであろう。
「では、なぜ、好きなものが買えるようになりたいのか」と再び尋ねてみる。
そうすれば、「それが手に入れば満足だから」、という答えになるかも知れない。その満足とは「幸せ」のことだ。
「お金が欲しい」
↓ なぜ?
「金があれば、好きなものが買えるから」
↓なぜ、好きなものが買えるようになりたいか
「好きなものが手に入れば満足だから」
↓それは
「満足したい」ということ。
↓それは
「幸せになりたい」ということ。
(幸せ=安心・満足)
すべてがこのように、「なぜ欲しいのか」「どうして手に入れたいのか」と尋ねていけば、最後必ず「幸せになりたいから」にたどり着く。
このことをプラトンは、著書『饗宴』で、ソクラテスと、ある女性とのやりとりを通して明らかにしている。
幸福は、人が求める一番根っこの部分であり、幸福とは何かを学び、知ることは万人にとって最も大事なことなのだ。
だが、こう聞いても、そうだろうかと頭をひねる人もあるだろう。「すべての人にとって共通」という部分が引っかかるのだ。だから、ヒルティはこう続けている。
「ただ、幸福の内容はどんなものか、また、この世で幸福を見出せるかどうかは、考えが一致しない」
ヒルティ『幸福論』下7
〝何が幸福か?〟
こうなると意見が分かれる。百人百様だ。
〝本当の幸福とは何か?〟
ともなれば、自信をもって答えらえる人は極めてまれになる。そこで様々な『幸福論』が書かれるのだ。
ここで、『幸福論』にも二種類あることを把握しておかねばならぬ。
二つは、ある〝前提〟によって分かれる。
前提とは、〝『死』を考えに入れるか、否か〟。
死を考えなければ、『生活の幸福論』。
死を念頭に入れれば、『人生の幸福論』。
同じ『幸福論』でも、内容はかなり違う。『生活の幸福論』は『よりよく生きる方法』を扱っている。
このような、『生活の幸福論』は分かりやすく、何をすればいいかもイメージしやすい。
それに対して、『人生の幸福論』の多くは、難解で、抽象的で、イメージしにくいものだ。
『死』という認識不可能な問題から『幸福』を論じるのが『人生の幸福論』だから、そうなるのは仕方がないのかも知れない。
だからといって『人生の幸福論』を無視していい訳ではない。それどころか『人生の幸福論』こそ重要なのだ。それは、『日常の幸福』と『人生の幸福』の関係が分かれば自ら明らかになる。
〝命あってのモノダネ〟と言われるように、日常の幸福はすべて、命あることが大前提だ。その大前提となる土台が崩れたら、日常の幸福は破綻する。
つまり、家を建てるには、土台から始めるように、真の幸福を見出すには人生の土台に着目せねばならぬ。この土台がグラついていたら、どんな美しい〝日常の幸福〟という建物も、根底から
破綻するであろう。その土台を論ずるもの、それが『人生の幸福論』なのだ。
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