イージー・ゴーイング 山川健一 -7ページ目

"Blue & Lonesome"はブルースと言うよりはストーンズだぜ!

 

 

昨日渋谷で、2日の金曜日に発売されたばかりのローリング・ストーンズ11年振りのアルバム""Blue & Lonesomeを買ってきた。デラックス・エディションではなく、普通のバージョンのほうだ。

 

最初に聴いた時、下っ腹にズシリと来るビートに驚愕した。
まさに不意打ち。
何曲か聴いていくうちにボディブローがきいてきて、倒れそうな気分になった。"All Of Your Love"で、文字通りベッドに倒れ込んだ。

 

マジかよ?
なんでこんなにヘヴィなわけ?
ミック、ミック、なんでそんなにシャウトするわけ?
"I Can't Quit You Baby"なんてほとんど絶叫じゃん!
キース、あんたのリフは重量級だよ。ソロの"Crosseyed Heart"ではここまでじゃなかった気がするけど、やっぱりストーンズという装置があんた自身に蹴りを入れるのかい?

 

これがストーンズなんだよな。チャーリィのシャッフルの叩き方がクリアになった気がして、でもこれが1960年代のロンドンのブルースシーンのスタンダードだったんだろうなと思ったりして。

 

エリック・クラプトンが参加している2曲はさすがにソフィスティケートされていて聴きやすいが(この2曲があって良かったぜ!)、あとはピュア・ローリング・ストーンズだ。

 

若い人に「これがブルースってもんですか?」と聞かれたら、ぼくは一瞬返答に窮するだろうという気がする。

 

「いやいやいや、ブルースがみんなこんなにヘヴィで丸裸で牙を剥いているわけじゃないんだよね。これはさ、何と言ったらいいのかな、そうだ、ローリング・ストーンズなんだよ!」

 

昨年12月にロンドン西部にあるブリティッシュ・グローヴ・スタジオで、たった3日間で録音されたのがこのアルバムだ。この時代に、全曲オーバーダブなしだ。

 

いろいろ書きたいことはあるが、まあ、今夜はここでやめておこう。
1人で爆音で聴いていると、今がいつの時代でここがどこで、自分が誰なのかわからなくなってきそうだ。

 

"Blue & Lonesome"、最高です。
これから飲もうと思います。

しまさん「LICKS」を語る

山川健一の「LICKS」は、読んでみると抱腹絶倒なエッセイが並んでいるんだけど、なぜ彼がこのサイトを作ろうと思ったのかという記事が書かれているブログがあります。読んでみて下さい。

 

ELECTRIC BANANA BLOG
しまさんの独り言、なんてね。ハニー。

 

http://ameblo.jp/oboochang/entry-12205995914.html

不義理、ご容赦!

実は書き下ろしの評伝をやっておりまして、先月今月とそれが追い込みで、ようやく脱稿しました。詳細については、決まり次第ここでお知らせします。

というわけで、他のことにまったく手が付けられず、ブログやTwitterも更新できず、大切な友人の皆様に不義理を重ねてしまいました。原稿が終わりシャバに帰ってくることができましたので、どうか見捨てることなく今後ともよろしくお願いします。

というわけで、いくつか取り急ぎ報告いたします。

 

■「山川健一LICKS 」登場!
旧い友人のしまさんという方から、「この度、健さんの全作品を網羅(することを目的にした)LICKSというページを作りました」というメールをいただきました。

 


LICKS

http://eleclub.kagennotuki.com/licks/licks.html
LICKSというのは「舌でなめる」というような意味で、これはもちろんローリング・ストーンズが2002年にリリースした2枚組ベスト・アルバム"Forty Licks"にちなんでいるのだと思われます。
しまさん、ありがとう。感謝! 感謝! 感謝!

 

■ズボンズ4年ぶりのフルアルバム!
友達のズボンズが4年ぶりのフルアルバム「Ice Cream & Dirt」をリリースしたよ。
http://natalie.mu/music/news/201733

 


相変わらず尖っていて、必聴だと思います。
ある日の深夜、大学の研究室で石川忠司教授とロックの話になり、ズボンズの話になった。ドン・マツオは親しい友達だよと言っても、信用しない。仕方ないから住所録のマツオ君の電話番号を見せてやるとひとつ溜め息をつき、こう言った。
「あんたは、こんなに偉い奴だったんだね!」
「ドン・マツオは偉いさ。俺は偉くないけどね」
ぼくはそう答えた。
でもドン・マツオからのメッセージでは、息子さんがぼくの本を読んでいたので「友達だよ」と言ったら尊敬されたんだそうです(笑)。石川忠司よ、それにドン・マツオの息子さん、俺達はほんとに親友なんだぜ!

 

■新人俳優の佐藤寛一郎君が映画デビュー
瀬々敬久監督最新作『菊とギロチン』で、新人俳優の佐藤寛一郎君がデビューします。アナーキストの役だそうです。この寛一郎君は、じつは佐藤浩市さんの息子さんで、ぼくもつき合いのある青年です。映画、楽しみだ!
http://news.aol.jp/2016/10/22/kikugiro/

 

 

他にもいろいろあるんだけど、おって報告していきます。
明日、明後日は、児童文学の作家の方々がやっている「季節風」の大会に参加します。

光と影の魔術師による『小川義文 自動車』

友人の小川義文が写真集を刊行した。
タイトルは『小川義文 自動車』。

 

 

彼は本書の中で文章も書いているが、余計なことは一切書かず、必要なことだけを記述していくそのスタイルはあたかも自動車のエンジンのようである。

 

小川義文とぼくのつき合いは長い。
初期の頃、この男とは本気でつき合いたいなと思ったぼくは失礼な質問をした。

 

「たとえばリチャード・アベドンが撮影したミック・ジャガーの写真が壁に架けてあったとするよね。それを見た人はだいたい、あ、ミックの写真だって言うでしょう。アベドンの写真だってことは、その次だよね? 写真って、何?」

 

その時に小川義文は怒るかと思ったのだが、苦笑しただけであった。まあ見てなよ、そのうちに分かるよ──とでも言いたげであった。

 

長いつき合いで、この男が教えてくれた。写真とは紛れもなく光と影の芸術なのだということを。この1冊の写真集『小川義文 自動車』に収録されたすべてショットは、魔法みたいなものである。小川義文は光と影の魔術師なのだ。

 

ぼくと小川義文には何冊か共著の本がある。ぼくが文章を書き、彼が写真を撮るわけだ。だがある時、ぼくは彼に言った。

 

「これからは小川さんが文章も書きなよ。絶対にそのほうがいい。多くの人が徳大寺有恒の後継者は誰かって探してる。それは、実は、小川義文以外にはあり得ないんだよ」

 

 

それで彼は、『写真家の引き出し』を書いた。2008年のことだ。これをきっかけに、彼は文筆家にもなった。たいへんだったかもしれないが、だからこそ『小川義文 自動車』に辿り着くことが可能だったのだと思う。

 

この1冊の写真集には、小川義文のすべてが詰まっていると言っていいと思う。出版不況のこんな時代にこんな贅沢を共有させてくれるなんて、なんと素晴らしいことなのだろうか。『小川義文 自動車』に最大限の敬意と、そして、祝福を!

 

「越水利江子さん出版百冊記念祝賀会」での祝辞

9月3日に京都の新都ホテルで、「越水利江子さん出版百冊記念祝賀会」が華やかに開催されました。ぼくもスピーチをしたのですが、その大意です。

 

この度はおめでとうございます。
越水利江子さんには、ぼくが学科長をつとめる東北芸術工科大学文芸学科の客員教授に就任していただき、数年の間、集中講義をお願いしていました。知り合ったきっかけは、2011年の震災と原発事故を巡り、ぼくが反原発ツイートをしていたのを越水さんが読んで下さったことでした。ごく自然に、昔で言う文通のようなことが始まりました。越水さんは母親らしいスタンスで長く原発に抗議されつづけており、頭が下がりました。

 

さっそく数冊の本をアマゾンで購入したのですが、最初に読んだ『風のラヴソング』は、はっきり言って泣きました。

 

 

 

 

京都まで、教員仲間(石川忠司)、バンドのギター(石澤ヨージ)、それから娘といっしょに越水さんに会いに来て、芸工大文芸学科の教員を引き受けてもらえないかお願いしたのですが、越水さんは「自分の作品にとって京都という土地は肉体である」ということで、無理だということでした。それでもあきらめきれなかったぼくらは、夏と冬の集中講義を客員教授という形でお引き受けいただきたいとお願いしたのです。夜、京都の街で飲んで、翌日このホテルの1階のカフェでまたお会いしたのですが、午前中だったのに越水さんはまたビールを飲んでました(笑)。

 

今は残念ながら退任されたのですが、ぼくの研究室には今も「越水利江子文庫」があり、学生達が自由に借りて読んでいいことになっています。4年生に勧められて『風のラヴソング』を読んだ1年生の、そのまだ19歳の女子学生がそれを返しに来ました。見たら目にうっすらと涙を浮かべ「子供を対象にした児童文学でもこんなに深いことが書けるんだなと驚きました。一生かかっても、私もこういう小説が書きたいです」と言うのです。文芸学科160数名に、今も越水利江子のDNAはリレーされていると言うべきでしょう。

 

学生だけではありません。教員であるぼくも多くのことを越水さんから学びました。いちばん大きなことは、丁寧に書き、丁寧に生きなければならないのだということです。ぼくと越水さんは同じ年代ですが、こちらは学生の時にデビューしたので、もう100数十冊の本が出ていると思います。しかし、正確に何冊の本を出したのか、どの本が100冊目だったのか、よくわかりません。この会場にいらっしゃるような心優しい友人達にも恵まれなかったので(笑)、こういうパーティを開いてもらうこともできませんでした。ぼく自身の粗雑な生き方の結果なのだと反省するばかりです。

 

今日、ぼくは東北芸術工科大学文芸学科の学生達と教員達を代表してこの会場にやって来ました。越水さん、またいつでも山形にいらして下さい。集中講義は無理でも、講演をお願いします。ぼくらは等しく、ラッセル車のようにエネルギッシュな、牡丹のように美しい、筍のような生命エネルギーに満ちたあなたを愛しています。そして次の本、次の次の本、さらにその次の本を心から楽しみに待っています。

 

※ラッセル車、牡丹、筍のたとえは、ぼくの前にスピーチされた方の表現で、それをお借りして話しました。

 

※この写真を撮ってくれたのは、小中高で2年後輩だった作家の寮美千子さんです。

『死を巡る知の旅』(野村朋弘)を紹介します。

今日は、編集者としてのぼくの仕事を紹介したい。
神宮外苑にある東京藝術学舎の中に、京都造形芸術大学、東北芸術工科大学共有の出版局があり、これを藝術学舎と言い、ぼくはそこで編集長をしている。『文芸ラジオ』や石川忠司の『吉田松陰 天皇の原像』もここから刊行されています。藝術学舎はこれらの本を発行し、『文芸ラジオ』は日販アイ・ピー・エスから、その他の本は幻冬舎から発売されています。

 

その出版局の最新刊が、『死を巡る知の旅』で、著者は野村朋弘氏(京都造形芸術大学通信教育部 芸術教養学科 准教授)である。

 

 

死を巡る知の旅死を巡る知の旅
1,296円
Amazon

 

 

なぜこの本の企画を立てたかと言うと、身近な人達の死が相次いだからだ。文学上の師匠だった秋山駿氏、親しい友人だった徳大寺有恒氏、ぼくに芸工大の文芸学科の創立を「命がけでやれ」と命じた徳山詳直前理事長。そして、父親の山川仁。さらに、ボウイとプリンスも逝ってしまった。

 

こうした人々の死に接する度に、癒しがたい悲しみに包まれ、しかし生者であるぼくは飯を食わなくてはならないし、瑣末で雑多な日常生活は続いていくのだ。

 

個別な悲しみと喪失感を乗り越えるために有効なひとつの方法は、「死」を対象化することだ。平安時代に源信によって書かれた極楽行きのマニュアル本とも言うべき『往生要集』から今日に至るまで、日本人は「死」をどんなふうにとらえてきたのか? それは、「病気と戦い勝利を目指す」欧米の死生観とは大きく異なっていたのである。

 

日本人は墓や墓地や葬儀をどんなふうにとらえ、それはどんなふうに変遷してきたのか? 葬儀社はいつ誕生したのか?

 

アルビレオにお願いしたブックデザインは、神道が行う神葬祭の様子を描いた図案が使われているが、複数あった装丁案を決定する際には文芸学科の学生達の意見も参考にしたのだった。

 

死の文化史を辿ることで、ぼくら自身の生を見つめるための一冊。それが『死を巡る知の旅』である。是非ともお読みください。

Apple Storeにいらして下さった皆さん、ありがとう!

 

Apple Store 銀座でのイベントにいらして下さった皆さん、ありがとうございました。文芸学科1年の女子学生や、2年生の保護者の方もいらして下さった。石川忠司とぼくが2人でやる文芸学科の講義は普段は80分なんだけど、今回は講義部分は30分ということで、ちょっと駆け足になってしまった気もします。しかし、まあ、エッセンスは伝わったのではないかと思います。

 

 

 

参加してくれた友人の奥様、松利江子さんがfacebookにこんな記事を投稿してくれました。松さん、勝手に引用しちゃうからね。

 

Apple Store イベント「夏休みに読むiBooks:山川健一」に参加してきました。作家生活40年間の作品群がアプリひとつで読めるなんて感慨深いです。

山川健一さんと東北芸術工科大学教授の石川忠司さんの小説の構造に関する講義は大変興味深いものでした。

山川さんのお薦めの本は『カラマーゾフの兄弟』、石川さんは『悪童日記』。カラマーゾフには、今日お聞きした要素がすべて入っているそうです。

健さんとは久しぶりにお会いできて嬉しかったです☆

#山川健一 #石川忠司 #山川小説 #幻冬舎


石川忠司とぼくとは、もう長い友人なのですが、最近は文学の伝道師と化しているような気がします。石川は「黒いイナズマ」、ぼくは「騒乱から生まれたロケンボーイ」と呼ばれてます(笑)。

 

その相棒の石川が参加者の1人から小説の未来について問われ、「小説はなくてもいいものだよね。難解になりすぎたもの、長大になりすぎたものに二分化していて、うん、滅びるかもしれないなと思います」と回答したのが、個人的にはショックだった。ステージ上で、じつはぼくは動揺した。あの瞬間の彼は「ロックは死んだ」と発言した、セックス・ピストルズのジョン・ライドンみたいだったね。

 

いやいや石川、ゲームやアニメに吸収され小説はいつか滅びるかもしれないけど、まだ死んじゃいない。もっと先へ行こうぜ! それが俺達の仕事だよ。しかし、この台風の中、あいつは仙台に無事に帰れたのかな? 電話しても繋がらないのだが…。

 

 

首都圏の高校生の皆さん、是非とも東北芸術工科大学文芸学科に入学して、ぼくらの文学の戦線に参加して下さい。小説の未来は、若い皆さんの双肩にかかっています。AO入試の出願シメキリは9月1日だからね。

 

東北芸術工科大学2017年度 入学試験日程・概要一覧
http://www.tuad.ac.jp/adm/inf/admdate/

 

明日の日曜日、Apple Store 銀座でお待ちします。

Apple Storeイベント
夏休みに読むiBooks:山川健一
2016 年 8 月 21 日(日)午後 1:00
Apple Store 銀座

 

小説家の山川健一氏が、学生に向けた推薦書をはじめ、執筆活動のこだわりをトークショー形式で語ります。また、東北芸術工科大学教授の石川忠司氏とともに、小説を書くことにチャレンジしたい方に向けた創作のヒントについてもたっぷりとご紹介します。ぜひお気軽にご参加ください。

 

無料です。
予約すると確実ですが、予約なしでも大丈夫だと思います。

https://concierge.apple.com/events/R079/ginza_kenichiyamakawa_21Aug2016/6164358373455593731/ja_JP

 

夏休みに読むiBooks:山川健一

ハイパーテキストという考え方

デジタル感覚のファーストステップは、コンピュータがハイパーテキスト、あるいはハイパーリンクという考え方の上に成立していることを知ることだと思う。
大切なのはコンピュータそのものではなく、デジタルな思考のほうだ。
たとえば、ぼくらはごく簡単に「小説」と言う。これをデジタル風に言い換えれば、「シーケンシャルなテキストデータによるフィクション」ということになる。
つまり、時間軸に沿ってずーっと続いているテキスト、それが小説というものだ。
だがインターネットでもローカルなコンピュータ上でも、デジタルはそうではない。
たとえばインターネットのウェブサイトでリンクボタンをクリックすれば、たちどころに別のデータに飛ぶことができる。これがハイパーリンクというもので、なぜそんなことが可能かと言えば、あたり前の話だが、コンピュータで使用されている言語がハイパーテキストだからである。
“ じつは、ハイパーテキストのほうが、シーケンシャルなテキストよりも遙かに人間の思考そのものに近いのではないかという説がある。あるいはそれは、人間の脳の構造によく似ている。デジタルが脳に快感をもたらすのは、きっとそのせいだ。
美しい女性と、あるいはハンサムな男性と、つまり恋人と甘いキスを交わそうかとするその瞬間、「あれ、ちゃんと歯を磨いてきたっけ?」と思い、「そう言えば歯磨きがもう残り少なかったな」「帰りに角のコンビニで買っていこう」「小銭持ってたっけ?」「それにしても消費税って不便だよなあ」という具合に発想が繋がっていくことだってあるだろう。恋人と抱き合い、キスするまでのほんの数秒のうちにである。
長い小説を一気に読んでしまう人はいない。途中でぼんやりしたり、ある単語にひっかかり、小説の本筋とは無関係な思い出に耽ったり、ピーナッツをつまんだりするだろう。それこそが、ハイパーリンクと“いうものだよ。
個人が所有できるコンピュータというものが生まれたのはそれほど昔のことではないが、それを使うことで知った自由の感覚は、ぼくらの脳を変容させてしまったのだ。
インターネットやゲームやマッキントッシュの世界は、おそろしいほどの吸引力を持っている。それはすなわち、デジタルであること(Being Digital)が、強力な磁場を持っているということだ。そいつにのめり込むことは、サディズムやマゾヒズムといった性的嗜好に溺れることや、睡眠薬に頼らないと眠れなくなるのに似ている。トリップできるってわけだよ。

 

抜粋:: 山川健一. “希望のマッキントッシュ”。 iBooks.

新鮮な読書体験──文学とデジタル

子供の頃から、誕生日が来ると夏休みになった。
大人になってからは、ずっと小説を書いていたので、夏休みも普通の日も関係なかった。今は大学の教員をやりながら小説を書いていて、教員というのは8月の前半はいろいろ仕事があり、ようやく夏休みに入った。

 

ずっとiPhoneが手元にあり、メールやニュースをチェックしたりゲームをやったり、そしてリリースしたばかりのJacksを読んだりしている。

 

Jacksには自分の本が85冊入っているので、文字通り拾い読みするわけだ。短編小説を読みはじめ、最後まで読んでしまい、結局朝まで他の小説も読んでしまったりする。空海や新選組のことが気になって、単語を検索してその部分を読んだりする。

 

そんな夜を繰り返していると、不思議な感覚にとらわれる。ひとつは、小説やエッセイを読むという行為が、ドラクエやポケモンGOやメールやニュースと同じ地平に存在する気がするということだ。すべてがiPhoneのなかにあるのだから。

 

それからもうひとつは、時代と年齢の感覚が消えるということだ。
これをうまく説明できるかどうか自信がないのだが、23歳の時に書いた小説も33歳の時の作品も、43歳、53歳、63歳の時点の文章もすべて同じひとつのファイルに収録されている。今ではぼくも読者の1人としてそんな複数の作品を瞬時に行き来する。すると、時代と年齢の感覚が消えていることに気がつくのである。

 

大袈裟な言い方をすると、過去、現在、未来へと時間がつづいていくニュートン流の時間感覚が、過去も現在も未来も同時に存在しているという相対性理論的な時間感覚に変容している。

 

すなわち、それがビーイング・デジタルであるということだ。

 

文学とはもっともアナログなもののようだが、脳の機能はハイパーテキスト的である。小説とデジタルは、案外と親和性が高いのだとぼくは思う。

 

※ハイパーテキストについては、明日にでも『希望のマッキントッシュ』の中の文章を紹介します。