2023年4月10日参拝。
寄居町の神社巡りのラストです
折原白髭(しらひげ)神社
東武東上線・寄居駅南口より徒歩30分。
前回記事の「折原佐太彦神社」からはぐるっと回り込むため徒歩7~8分かかりますが、直線距離では200m弱です。
こんなに至近距離に、猿田彦を祀る神社が2社あるのです
社号碑。「村社 白髭神社」
ちなみに、
「髭」=口ひげ
「鬚」=顎ひげ
「髯」=頬ひげ
を表すとのことです🧔
鳥居。
左手に手水舎
埼玉県大里郡寄居町折原に鎮座。
総本社は滋賀県の「白鬚神社」です。
全国にある292社の分社のうち、なんと33社が埼玉県にあります
静岡県64社、岐阜県62社に続く第3位です。
滋賀県にはたった5社となぜか少ないのです。
拝殿
美しい「顔」の拝殿です
【御祭神】猿田彦命
神額。
「白髭大神」の扁額もありました。
本社「白鬚神社」は、近江最古の大社で、社記によれば、第11代・垂仁天皇25年(紀元前4年)に、皇女・倭姫命が社殿を建立して創建したと言われています。(一説に再建とも。)
第40代・天武天皇の白鳳3年(675年)、勅旨により「比良明神(ひらみょうじん)」の神号を賜ったとされます。
「比良明神」と呼ばれるのは、この地方の地主神であるため。
国史にも「比良神」の神名が見えることから、元々の祭祀は比良山に対するもので、 元々の御祭神は比良山の神であったとする説もあります。
「白鬚信仰」の多く分布する武蔵国北部には渡来人が多いことから、渡来人が祖神を祀ったことに始まる、という説もあるようです
【「比良」のつくもの】
①比良夫貝(ひらぶがい)
御祭神の猿田彦は、天孫・ニニギを日向の高千穂に案内した後、アメノウズメに送られて伊勢の狭長田の五十鈴川のほとりに帰り、アメノウズメと結婚。
その後、伊勢の阿耶訶(あざか)の海岸で漁をしていた時、比良夫貝に手を挟まれて海に引き込まれ、3つの御霊となって溺れ死んでしまいます。
その時の3つの御霊の名は、水底に沈んだ時の名を、底度久御魂(そこどくみたま)、海水に泡が立った時の名を、都夫多都御魂(つぶたつみたま)、水面に出て泡が開いた時の名を、阿和佐久御魂(あわさくみたま)と称しました。
この「比良」かぶりは偶然なのか
②黄泉比良坂(よもつひらさか)
日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。
猿田彦は、塞の神・境の神ともされますよね。
『社寺縁起辞典』には、次のような記載があります。
天孫降臨に際して先導の使命を果した後、猿田彦神は伊勢国より諸国を巡幸して近江国に至り、琵琶湖の風光を愛でて、そのまま鎮座した。
土俗はその神を祭り神社を建て、老翁の姿で顕れたので「白髭の神」と称し、また比良の麓なので別名を「比良明神」と称したとのこと。
「比良山」は、滋賀県滋賀郡志賀町と大津市堅田との境に、琵琶湖の西岸にそって南北に連なる高峰群です。
伊勢の阿耶訶(あざか)の海岸で、比良夫貝に手を挟まれて溺れ死んだんじゃないの
ご本殿
社殿の右手に末社の覆屋。
向かって右が、大神宮社。
【御祭神】天照大御神
※御祭神は一般的なものです。以下同様。
中央が、
愛宕神社 & 雷電神社。
愛宕神社
【御祭神】火産霊命
雷電神社
【御祭神】
火雷大神・大雷大神・別雷大神
向かって左が、若宮八幡宮。
【御祭神】仁徳天皇(=大鷦鷯尊)
ご本殿を真裏から。美しい~
ご本殿の裏手にも末社の覆屋。
右・八坂神社。
【御祭神】素戔嗚尊
左・天神社。
【御祭神】菅原道真公
社殿の左手には、
名称不明の石祠。
稲荷神社🐺
【御祭神】宇迦之御魂神
名称不明の石祠群。可愛い
「白髭」がデザインされた鬼瓦。
これは磐座なのか、巨岩の頂上にも
名称不明の石祠。
柏書房『日本の神様読み解き事典』によると、
「白鬚神社/比良明神」の御祭神は猿田彦命としていますが、
『古事記』でイザナギ・イザナミが生んだ国土の中で「筑紫国を白日(しらひ)別神と謂ひ」とあり、
「白日神(しらひがみ)」=筑紫国の神、または新羅神(しらぎがみ)であるとの説もあります。
「白」のつく神社には、他に「白山比咩神社(白山神社)」がありますが、
「白」の文字がつく神や神社、白鬚をたくわえた神を祀る神社は、朝鮮渡来の神を祀っており、「白鬚神社」も【新羅神】が御祭神であるとも言われています。
御神木。
前回の「折原佐太彦神社」の記事に、三諸さんから、武蔵国へ移住して来た渡来人についての詳細なコメントをいただきました
都から見た東国は、東海道を通っても東山道を通っても武蔵国が終点で、地の果てみたいなイメージです。
なので、渡来人を辺境の地・武蔵国へ強制移住させました。
・高句麗人=高麗郡(現・日高市、鶴ヶ島市など。)
・新羅人=新羅群→新座郡(現・和光市、朝霞市、新座市、志木市など。)
※私は新座市在住です。
百済人も移住させているのに、なぜか「百済郡」はありません。
三国の呼び方は、
・高句麗(こうくり)→コクリョ
・新羅(しらぎ)→シンラ
この2つは、日本語と韓国語に共通点がありますが…
・百済(くだら)→ペクチェ
と全然違うのです。
作家の井沢元彦氏によれば、
「くだら」は「クンナラ」が転訛したもの。
「クン」=大いなる、大きな。
「ナラ」=国 または 村。
つまり、クンナラ=「大いなる国」。
我が祖国的なニュアンスで呼んでいるので、皇室の先祖は百済人なのでは、としていたとのこと。
※ここまで三諸さんのコメントより引用。(丸パクりです)三諸さんありがとうございましたm(__)m
これに関連して、
平成13年(2001年)12月の、天皇陛下(現・上皇陛下)お誕生日に際しての会見で、
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」と述べられています。
桓武天皇の生母は、百済系渡来人氏族・和氏の出身である、高野新笠(たかののにいがさ)。
桓武天皇は、朝鮮人の血が入っていたからか、この時代の成人男性の平均よりも高い身長だったと言われています
【折原について】
「折原白髭神社」が鎮座する寄居町折原地区は、かつては「織原」と書き、戦国時代、後北条氏の家臣であった丹党・織原氏の屋敷が存在していました。
丹党(たんとう)は、「武蔵七党」の一党で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した武士団。
第28代・宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔と言われています。
『日本書紀』神功紀に「意流村」の名が見え、これは『三国史記』にある「尉礼城(百済の王都・漢城)」のことだと思われます。
雄略天皇二十年紀には、
「百済記に云はく、狛の大軍来りて、大城(コニサシ)を攻めること七日七夜にして、王城(漢城)陥り、遂に尉礼国を失ふ」とあります。
「意流(おる)」は「大」の意味で、「大城(古代朝鮮語のコニサシ)」を指します。
「意流村(おるすき)」は「大ノ国」のことで、「クダラ(大邑・大国)」と同じ意味。
「原(ハラ・ハル)」は邑・国・城(都)の意味で、特に非農民の職業集団居住地を指します。
つまり「折原(おりはら)」は、鍛冶・木工・石工等の百済渡来人の居住地を指す言葉なのです
寄居町の荒川沿いに、猿田彦を祀る神社が2社もあるのは興味深かったです。
元々は朝鮮渡来の神の可能性が高いことがわかりました。
私は旧・新羅郡の新座市に住んでいますが、海岸旅行に行くと、結構な頻度で韓国人と間違われます。
ルーツは朝鮮渡来なのかも知れないですよね
最後までお読みいただき、ありがとうございました