皆さま、ご無沙汰しております
約1ヶ月のお休みをいただきました。
毎日毎日暑いですね
6月30日に「駒込富士神社」を訪れて以来、「敷島神社」以外の神社へ行っていません。
あと1ヶ月もすれば神社巡りも再開出来ると思うので、ブログの方もぼちぼち再開します
どうぞよろしくお願いいたします
2023年5月17日参拝。
城山神社
東武東上線・志木駅南口より
【西武バス】所52・所沢駅東口行き
または、
西武新宿線&池袋線・所沢駅東口より
【西武バス】所52・志木駅南口行き
「城」下車 徒歩5分。
JR武蔵野線・東所沢駅より徒歩22分。
私は、行きはバスで、帰りはダイチャリでした。
柳瀬川に架かる城前橋を渡り、坂を上って行くと、右手に突然
社号碑が現れます。
埼玉県所沢市城に鎮座。
「城」の地名は、「滝の城」と呼ばれる城が築かれていたことによるもの。
埼玉県指定史跡である「滝の城址公園」内に鎮座しています。
一の鳥居。
狛犬の間を抜けて、
細く急勾配の石段を上ります。
めちゃめちゃ急
石段上にも狛犬
二の鳥居。木製の両部鳥居です。
城山の頂上の境内は、思いの外広々としていました
「瀧之城本丸之趾」の碑。
手水舎
拝殿
山の上にこんな立派な社殿があるとは思いませんでした
神額。
【御祭神】
軻遇突智命かぐつちのみこと
創建年代は不詳。
古くから当地に「愛宕神社」が祀られていましたが、「滝の城」が築かれたことにより城内鎮守となり、やがて落城と共に壊れ、その後十数年経って村民が再び祀った、と伝わっています。
天正年間(1573~1591年)に、「天神社」が城内の鎮守として広ヶ谷戸に、「八幡神社」が城の鬼門除けとして北原に創建されました。
承暦年間(1077~1080年)の頃に「熊野神社」が創建され、築城に当たり隠滅、慶長年間(1596~1615年)に再建されたとのこと。
明治5年村社に列格。
明治41年、「天神社」「八幡神社」「熊野神社」「稲荷神社」2社を合祀し、「愛宕神社」の社名を城跡にちなんで「城山神社」と改称しました。
『武蔵野話』には、
「本城の跡に愛宕権現の祠あり、神体は立鳥帽子をかむりし馬上の石像にて、たけ一尺ばかりもあり、頭大きく不調法なる細工なれども古雅なり、城主太田下野守の像なりといへり」
と記載があります。
「頭大きく不調法なる細工なれども」って…
また『風土記稿』愛宕社の項にも、
「城跡の頂上本丸の跡と思しき所にあり、神体は石にて作る、馬上の像なり、本郷村東福寺持」
とあります。
いずれにしても、御神体は馬に乗った石像だったようですね
字松井には明治初めに廃された氏照院の寺跡があります。
自害した領主・北條氏照の菩提を家臣が弔うために建立した寺で、神仏分離までは当社の別当寺でした。
御神木の夫婦樫。
夫婦樫を挟むように3本の石段があります。
天神社・八幡神社・熊野神社のうちのいずれかは不明。
こちらも、社名は不明です。
このお社だけは、
稲荷神社🐺だとわかります。
これら境内社のお社は、物見櫓跡に建てられています。
上からはご本殿がよく見えます
千木は外削ぎ・鰹木は5本(奇数)=男神仕様ですね
平成2年の発掘調査で「四脚門跡」が検出され、鉄砲玉や飾り金具などが出土したとのことです。
昭和51年、土砂流失を防ぐ保護工事のた め斜面を掘削したところ、横穴墓群が発見されています。
横穴墓は9基を数え、斜面上の比較的高い位置に構築され、それぞれの間隔も5m内外と極めて規則性のある配置だったとのこと
人骨とともに金環(古代のイヤリング)が発見され、 築造時期は7世紀中頃と考えられているそうです。
南側は視界が開け、展望台のようです東京都清瀬市方面を一望出来ます。
見えているのはJR武蔵野線の線路で、東所沢駅と新座駅の間。
東京都清瀬市と埼玉県所沢市の境に位置します。
ずっと境内をウロウロしていた猫ちゃん。私の足元にゴロンと横になってしまいました
「滝の城址公園」の北側、バス通りのほうにも社号碑がありました。
「滝の城」は、狭山丘陵の一角が低地に向って落ちる急な崖を利用した平山城※で、敷地は約66,000㎡。
※平野の中にある山、丘陵等に築城された城のこと。
「滝の城」の名前は、かつて城の東側に滝があったことに由来します。
二重堀跡。
築城年代は不明。
関東管領山内上杉氏の家臣で、武蔵守護代などを歴任した大石重定が、15世紀後半に築いたと言われてきましたが、
最近では扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰で、江戸城・河越城を築いた太田道灌が、両城を結ぶ「清戸道」の中間地点に築城したものとも考えられています。
『道灌状』と呼ばれる書状によると、豊島兄弟が両所(石神井城・練馬城)に対城を構えたので、江戸城と河越城の連絡が不自由になったのです。
この両城に挟まれていたのが「清戸道」で、江戸城から練馬大泉・新座市・清瀬市を通り「滝の城」へ入ったものと思われます。
一説には、太田下野守が城主であったとも言われています。
やがて北条氏が関東に進出・台頭すると、天文15年(1546年)の河越夜戦で扇谷上杉氏は滅ぼされ、「滝の城」は北条氏康の次男・氏照に引き継がれます。
「境目の城」として重要な役割を担い、柳瀬川の対岸には番所が置かれ輪番で警固させていたことが、永禄7年(1564年)の『北条氏照 清戸三番衆交代命令状』として残されています。
北条氏の支配がさらに東へ進むと、「滝の城」は小田原城・滝山城(のちの八王子城)の支城として、河越城・岩村城への「つなぎの城」となり、永禄7年(1564年)~天正5年(1577年)にかけての下野方面への出兵の際には陣揃えの地にもなっています。
しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、浅野長政勢の北方からの攻撃を受け、1日で落城したと伝わっています
裏参道・一の鳥居。
帰ろうと思ったら、また現れた
今はこの猫ちゃんが城主なのかも。
ネットの画像でも結構この猫ちゃんを見たので、城山神社に行けば必ず会えそうです
御朱印は、約5年前に記事にした所沢市「坂之下天神社」 の宮司さん宅でいただけるとの情報がありましたが、
徒歩で15分くらいあるので、今回はパスしました。
山頂の境内は、眺めも良くとても落ち着ける場所だし、自宅から5kmちょっとなのでサイクリングにちょうど良い距離。
涼しい季節になったら再訪したいと思います
最後までお読みいただき、ありがとうございました