【福井県・敦賀市】氣比神宮 | 鳥居の向こう側

鳥居の向こう側

埼玉県・東京都・千葉県・神奈川県の神社を中心に巡り、ブログを書いています♪

皆さま、お久しぶりですルンルン

ちょっと忙しくて、あっという間に3週間も間が空いてしまいました泣き笑い


9月24日(日)~26日(火)に、北陸旅行へ行って来ました新幹線💨

その時に巡った神社を順番にご紹介しますウインク



2023年9月24日参拝。


北陸道総鎮守・越前國一之宮

氣比神宮神社


電車JR北陸本線・敦賀駅より徒歩12分。
【バス】
バス福鉄バス・コミュニティバスはぎ号・ぐるっと敦賀周遊バス「氣比神宮前」下車すぐ。
【車】
車北陸自動車道・敦賀ICより2km。


大鳥居の前は広場のようになっていて、ボランティアの方々が、鳥居をバックに写真カメラを撮ってくれていました。
ピンクのTシャツのボランティア…親近感湧きまくり(笑)


社号碑「官幣大社氣比神宮」

神橋大鳥居(一の鳥居)

正保2年(1645年)の建立。高さ10.9m・柱間7.2m、木造本朱漆の両部鳥居です。
明治34年国宝に指定され、現在は国の重要文化財です。

神額は、有栖川宮威仁親王の御染筆。


左手に手水舎アセアセアセアセ

柄杓はなし。直接水が流れ出ていましたタラータラータラー


90度左に折れて二の鳥居です。

こちらも朱塗りの両部鳥居です。


外拝殿乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ

《本宮》
【御祭神】
伊奢沙別命 いざさわけのみこと
別名:氣比大神=笥飯大神 けひのおおかみ・御食津大神 みけつおおかみ
食物を司る神。
古くから海上交通、農漁業・衣食住の生活全般を護る神として信仰されています。

【相殿神】
仲哀天皇 ちゅうあいてんのう
=帯仲津彦命 たらしなかつひこ

神功皇后 じんぐうこうごう
=息長帯姫命 おきながたらしひめ

《総社宮》
【御祭神】
応神天皇 おうじんてんのう
=譽田別命 ほんだわけ

《東殿宮》
【御祭神】
日本武尊 やまとたけるのみこと

《平殿宮》
【御祭神】
玉姫命 たまひめのみこと
音楽舞踊の神。

《西殿宮》
【御祭神】
武内宿禰命 
たけのうちのすくねのみこと


御祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、2,000年以上の昔、天筒山(てづつやま)に現れ、境内の聖地(現在の土公※)に降臨したと伝承されています。
※土公については後述します。

仲哀天皇は即位後、当宮に参拝され、国家の安泰を祈願お願い
神功皇后は、天皇の勅命により、妹・玉姫命と武内宿禰命を従えて筑紫より行幸し、参拝されました。
これにより文武天皇は、大宝2年(702年)勅して当宮を修営した際、仲哀天皇・神功皇后を合祀して本宮とします。
後に、日本武尊を東殿宮応神天皇を総社宮玉姫命を平殿宮武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称しました。


『気比宮社記』には、
神功皇后が三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るよう神託があり、穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。
仲哀天皇8年3月に、神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて気比神を祀らせた。
とあります。
※Wikipediaより抜粋。


『延喜式神名帳』には「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、朝廷からの崇敬は特に厚く、「四所宗廟※」の一社に数えられました。
※「東に伊勢、西に香推、南に石清水、北に氣飯」

中古より「越前國一ノ宮」と定められ、明治28年、「氣比神宮」と改称。
官幣大社に列せられ、七柱の神は一座毎に奉幣に預ることとなりました。
地元では「氣比さん(けいさん)」の名で親しまれていますおねがい


二の鳥居の内側の神域は、廻廊に囲まれています。


「神宮」なので、紋は、皇室の菊花紋=「十六葉八重表菊」です。




ご本殿「本宮」キラキラキラキラキラキラ

これが精一杯でしたカメラぼけー
手前に見えているのは「四社之宮」のうちどのお宮かわかりません。
西側なので「東殿宮」でないことだけは確かですが。


ご本殿の西側、瑞垣の外に「九社の宮」が鎮座します。

まずは北向きに2社
摂社・伊佐々別(いささわけ)神社 

【御祭神】
御食津大神荒魂神 
みけつおおかみあらみたまのかみ

社殿が北面しているのは、漁撈を守る神であるため北方の海を向いている、と伝えられています。
応神天皇が皇太子の時当宮に参拝。
夢に大神が現れ翌朝浜に出てみると、笥飯(けひ)の浦一面に余るほどの御食の魚🐟を賜わったので、新たに荒魂を祀ったお社とのことです。


その右手に、
末社・擬領(おおみやつこ)神社

【御祭神】
武功狹日命 たけいさひのみこと
一説に、
大美屋都古神 おおみやつこのかみ
玉佐々良彦命 たまささらひこのみこと
とも。
国造の祖神とされています。


そして、東向き(ご本殿の方を向いて)に7社が並びます。



摂社・天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社

【御祭神】
天伊弉奈彦大神
あめのいざなひこのおおかみ


摂社・天伊弉奈姫(あめのいざなひめ)神社

【御祭神】
天比女若御子大神
あめのひめわかみこのおおかみ

いずれも式内社
社家伝記に、
「伊佐奈日女神社、伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなり」
とあり、古来より縁結びハートの御神徳で知られています。


摂社・天利劔(あめのとつるぎ)神社

【御祭神】
天利劔大神
あめのとつるぎのおおかみ

式内社
仲哀天皇が当宮に参拝し、宝劔を奉納。
後に祠を建てお祀りしたお宮。


末社・鏡神社

【御祭神】
國常立尊 くにのとこたちのみこと

神功皇后行啓の際、種々の神宝を当宮に奉納。
その中の宝鏡が霊異を現わしたので、國常立尊とともに崇め祀ったお宮。
慈悲の大神


末社・林神社

【御祭神】
林山姫神 はやまひめのかみ

福徳円満の大神
式内社の「越中國礪波郡林神社」に比定されています。
延暦年間に、僧・最澄が氣比の宮に詣で、林神社の霊鏡を比叡山・日吉神社に勧請
つまり当社が、江州比叡山・氣比明神の本社になります。


末社・金神社(かねのじんじゃ)

【御祭神】
素盞鳴尊 すさのおのみこと

家内安全の神
延暦年間に、僧・空海が当宮に詣で、
弘仁年間に金神社の霊鏡を高野山に勧請
紀州高野山・氣比明神(高野山四社明神の1つ)の本社


末社・(つるぎ)神社

【御祭神】
姫大神尊 ひめのおおかみのみこと

剛毅果断※の大神として神明の神託があったため、莇生野村(旧敦賀郡)から勧請し祀ったと伝わります。
※強固な意志をもち、気力があり思い切って実行すること。


いちばん奥、南向きに2社
末社・神明両宮

【御祭神】
内宮・天照皇大神


外宮・豊受大神


外宮は慶長17年(1612年)に、内宮は元和元年(1615年)に、伊勢より勧請されました。


大鳥居(一の鳥居)をくぐってすぐ左手に、
末社・猿田彦神社

参道を進み、突き当たりを左に折れます。


つまり、社殿は東向き(ご本殿の向き)になります。
安永4年(1775年)のご鎮座。


【御祭神】猿田彦大神
氣比大神の案内をされる神です。


手水舎の左脇に、
長命水タラータラータラー

前述のように、
伊奢沙別命一柱を祀る神社から、大宝2年(702年)文武天皇の勅命で、仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され、御祭神が七柱とされました。
その際、突如として地下水が噴出アセアセアセアセしたと伝えられていますびっくり
合祀された神々のうち、特に武内宿禰命は大変長生きの神であるため、御神徳が宿るご神水として信仰され、「長命水」の名称で親しまれています。


向かい側、参道の右手に
社務所


二の鳥居の手前に、
旗掲松(はたかけのまつ)

南北朝争乱時代の延元元年(1336年)、北朝方の足利軍侵攻に対して、南朝方の後醍醐天皇を奉じた当神宮大宮司・氣比氏治が、氣比大明神の神旗を掲げ戦勝を祈願したと伝わる歴史の松です。



芭蕉像

俳人芭蕉は、「おくのほそ道」の旅において月を詠むことを目的の1つにしていました。
旅籠出雲屋(現敦賀市相生町)に宿を持ち、敦賀での仲秋の名月🌖を心待ちにしていたとのこと。

敦賀の地では数多くの句が残され、本文に「けいの明神に夜参す」とあることから、平成28年に、氣比神宮境内地の全域が「おくのほそ道の風景地」に指定されました。


境内の南側には、南の池・亀の池・神水苑が配されています。

前述の通り、敦賀は名水湧出の地です。
境内は水脈の中心に位置し、江戸時代に当宮の亀の池は『日本庭園歴覧』に記された名池でもあったとのこと。


ちょうど彼岸花が咲いていました照れ


南参道の鳥居


境内の東側にも境内社が並びます。

摂社・ 角鹿(つぬが)神社

【御祭神】
都怒我阿羅斯等命
つぬがあらしとのみこと

式内社
第10代・崇神天皇の御代に、任那の皇子・都怒我阿羅断等が氣比の浦に上陸し貢物を奉りました。
天皇は氣比の大神の司祭と当国の政治を任せられましたが、その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったお宮です。

現在の「敦賀」の元の地名は「角鹿」(つぬが)で、この命の御名によるものと伝わります。
古くは東門口が表通であったため、氣比神宮本社の門神と言われています。


『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に、
新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)が渡来したと記されていて、都怒我阿羅斯等と天日槍を同一とする説もあります。
いずれにしても渡来の神ということです。



その左に、
末社・兒宮(このみや)

【御祭神】
伊弉冊尊 いざなみのみこと


元は氣比神宮寺の境内に鎮座していました。
花山天皇の御代・寛和2年9月20日遷宮の記録が残されていて、それ以前より鎮座していたことがわかります。

江戸時代には子宝祈願・安産の神と称され、小児の守神として信仰されています。

左右の狛犬の大きさが違う、と不思議に思いましたが、母と子の狛犬だったようです。




さらにその左に、
末社・大神下前(おおみわしもさき)神社

【御祭神】
大己貴命 おおなむちのみこと


式内社
敦賀市内氣比大神四守護神の1つとして、元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座していましたが、明治44年現在の地に遷座。
その際、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀しています。



東参道口、駐車場の奥に、
土公(どこう)

天筒山(てづつやま)の方角、北東部に残るこの「土公」は、氣比大神(伊奢沙別命)降臨の地キラキラとされ、古来より聖地として「触るべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に言い伝えられています。

「土公」は陰陽道の「土公神」の異称で、『春は竈に 夏は門に 秋は井戸に 冬は庭にあり』とされ、その期間は其所の普請(土木・建築の工事)等を忌む習慣があります。
社殿家屋建立の時、「この土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなし」と深く信仰されていました。


仏教伝来による寺院建築の影響もあり、奈良時代から現代のように社殿を建てて祭祀を行うように変化してしまいましたが、
この「土公」は、古代における祭祀の形=神籬磐境の形態を留めています乙女のトキメキ乙女のトキメキ


【御朱印】
越前國一之宮・氣比神宮の御朱印


摂社・角鹿神社の御朱印


大鳥居の刺繍の入った小さな「錦守」も、色合いが素敵だったので拝受しました爆笑



最近読んだ『ホツマツタエ』に関する本に、興味深い記述があったのでご紹介します。

『ホツマツタエ』によると、本州全域が豊かになっていく中で、食糧不足により筑紫が政情不安で、ニニギは自ら出向き田を増やそうと決めます。
長男・ホノアカリを瑞穂宮(琵琶湖)の君とし、次男と三男は北の津(敦賀)に向かわせ、もめごとなく仲良くしろよ、と言い残すのです。

言然然別(いざさわけ)=兄弟間の諍いごとの意味。
氣比神宮の御祭神・伊奢沙別命とは、ニニギの三男・ヒコホホデミ(山幸彦)のこと、としているのです。

「笥飯(けひ)の神」とは、山幸彦が兄・海幸彦の釣り針を失くし窮地に陥った時、シオツチ翁の助け船と笥飯(弁当)をいただき、その後運が開けたことで釣り針を見つけられたことから来ているとのこと。

『古事記』では、海幸彦と山幸彦の
諍いの舞台は日向ですが、ホツマツタエでは北の津(敦賀)で、シオツチ翁の船で日南海岸の鵜戸へと向かうのです。

※小深田宗元著『読み比べ古事記とホツマツタエ』かざひの文庫 より抜粋。


御祭神が食物神としての性格を持っていることは、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映しており、海人族によって祀られた神社であることを伺わせます。
北陸は、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝でもあります。
「氣比神宮」は、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関連が深く、朝廷から重要視された神社で、古代史において重要な役割を担う神社だったことがよくわかりました。


今まであまり気に留めて来なかった地域でしたが、北陸、興味深いですおねがい
北陸の神社巡りは次回へ続きます。


長文の記事に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました爆笑ルンルンルンルンルンルン