9月24日(日)~26日(火)に、北陸旅行へ行って来ました💨
前回からのつづきです。
前日は金沢に宿泊。
レンタカーを借りて、朝一で能登半島方面へ向かいます💨
2023年9月25日参拝。
能登國一宮・
氣多大社(けたたいしゃ)
【電車】
JR七尾線・羽咋駅より
【北鉄能登バス】「一の宮」下車3分。
【車】
のと里山海道・柳田I.C.より1.6km。
社号碑。「国幣大社 氣多神社」
鳥居。
「氣比神宮」もそうでしたが、ここも両部鳥居です
能登半島の付け根、石川県羽咋市に日本海に面して鎮座します。
旧称は「気多大神宮」。
創建は、第8代・孝元天皇、または第10代・崇神天皇の御代と伝わります。
①社伝『気多神社縁起』
第8代・孝元天皇の御代に、御祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて舟で来臨。
化鳥・大蛇を退治して海路を開き、能登半島を平定開拓したのち、守護神としてこの地に鎮まった。
②『気多社島廻縁起』
孝元天皇の時に、異国の王子である気多大菩薩が従者を率いて渡来し、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放した。
③『気多社祭儀録』
御祭神は第10代・崇神天皇の御代の勧請。
神代からの鎮座とする説もある。
④一説には、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座していたが、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられている。
鳥居をくぐると遠くに神門が見え、奥にはこんもりとした社叢が確認出来ます
天平13年(741年)能登国が越中国の一部だった時代、越中国の一宮は現在の「氣多大社」でした。
「氣多大社」が中央の文献に初めて見えるのは『万葉集』。
越中守として赴任した大伴家持が、天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っています。
「志雄路から 直越え来れば 羽咋の
海朝なぎしたり 船楫もがも」
(巻17・4025番)
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、貞観元年(859年)には神階が正二位勲一等から従一位に上っています。
このような厚遇は、東北経営、または新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではなく、能登半島の要衝に鎮座する「氣多大社」の神威が中央国家に及んでいたと思われます。
近年、当社から南へ800mの地に発見された寺家遺跡からは、縄文前期から中世の大規模な祭祀関係の遺構類が出土しています。
神門の手前、左手に手水舎
水盤には柄杓がありました
神門。国指定重要文化財。
社伝によれば、桃山時代の天正12年(1584年)の建立で、四脚門という形式です。
拝殿 国指定重要文化財。
承応2年(1653年)の建立。
建仁寺流の加賀藩大工・山上善右衛門嘉広の作と伝わっています。
『延喜式神名帳』には、能登国羽咋郡に「気多神社 名神大」と記載され、名神大社に列しています。
古くから北陸の大社として知られ、中世以降は能登国一宮とされました。
中世・近世には、畠山氏・前田氏など歴代の藩主からも社領の寄進、社殿の造営などの手厚い保護を受けました。
ご本殿・拝殿・神門・摂社若宮神社・摂社白山神社(以上国指定重要文化財)・神庫・随身門(ともに県指定文化財)が加賀藩によって造営されています。
明治4年(1871年)国幣中社に列し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格。
第二次大戦後は、神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていましたが、平成22年(2010年)神社本庁に属さない単立神社となりました。
ご本殿 国指定重要文化財。
【御祭神】
大己貴神 おおなむちのかみ
別名:大国主神 おおくにぬしのかみ
(=大黒様)
天明7年(1787年)建立。清水次左衛門峯充の作。
「両流造り」は、このご本殿と「厳島神社」にしか見られないそうで、神仏習合の影響を濃厚に伝える特異な様式とのことです。
※画像は氣多大社公式HPより。
拝殿の奥には、中央のご本殿の左右に摂社があり、3棟が立ち並ぶ形です。
ご本殿の左手に、
摂社・若宮神社。国指定重要文化財。
【御祭神】
事代主神 ことしろぬしのかみ
(=恵比須様)
永禄12年(1569年)に能登守護・畠山義綱により再建されたもので、石川県下で数少ない戦国時代の建築の1つ。
ご本殿の右手に、
摂社・白山神社。国指定重要文化財。
【御祭神】
菊理媛神 くくりひめのかみ
天明7年(1787年) の建立。
ご本殿と同年の棟札があり、同時に同じ大工(清水次左衛門・清水多四郎)によって造られていることがわかります。
内陣の形式・意匠はご本殿に準じているとのことです。
摂社・白山神社の右手にあるのが、
神庫。
同じく、天明7年(1787年)の造営。
方一間の校倉造りで、元は「宝蔵」と呼ばれていました。
神庫へ続く石段の右手に、
摂社・楊田(ようだ)神社。
【御祭神】荒御魂神
(迦具土命という説もあり)
「入らずの森」の入り口に、鳥居のみがあります。
「氣多大社」は、約33,000㎡の広大な社域を持つ神社です。
加賀藩の保護した「氣多大社」の社叢(国の天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」として神聖視され、古代から人の入れない禁足地となっていました。
奥宮
【御祭神】須佐之男尊・奇稲田姫
※「入らずの森」内に鎮座し、一般の参拝は不可。
神職でさえも、年に1度の社叢内の奥宮の神事を勤めるために、目隠しをして通行するのみと言われています
昭和58年5月、全国植樹祭で昭和天皇が本社に行幸され、「入らずの森」に踏み入られ、
「斧入らぬ みやしろの森 めずらかに
からたちばなの 生ふるを見たり」
と御製を詠まれたとのことです。
※画像は氣多大社公式HPより。
最近読んだ、『熊楠の神』(戸矢学著・方丈社)の中には、
美しい鎮守の森についての記述があり、
皇大神宮の遙宮・瀧原宮を筆頭に挙げ、賀茂御祖神社(下鴨神社)の「糺の森」や、氣多大社の「入らずの森」と並び称されてしかるべき、とありました。
「入らずの森」なので実際に歩いてみたりは出来ませんが、私は「瀧原宮」「賀茂御祖神社」「氣多大社」を全て参拝することが出来ました
境内の東側に、
太玉神社。
【御祭神】
天太玉神 あめのふとだまのかみ
この「太玉神社」の社殿周辺が、特に良い「氣」を感じました
菅原神社。
通称:合格橋には、合格祈願の絵馬がいっぱい。
【御祭神】菅原道真
合格橋の手前から見た、「楊田神社」の鳥居方向です
境内の西側、参道の左手に、
養老大国像奉安殿。
「幸運のだいこく像」が祀られていました。
この辺りの林の中に、
奥津島神社。
【御祭神】奥津島姫命
の小さな祠があるはずなのですが…
見つけられませんでした
拝殿手前の左手に、「幸せむすび所」という待合所のようなものがあり、
祭具や神輿が展示されていました。
参道の右手に、社務所。
六国史※や『延喜式神名帳』によると、氣多の神の苗裔神(御子神)や分祠が日本海沿岸の各地に祀られていたことがわかります。
※『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』
●飛騨国・気多若宮神
比定社「気多若宮神社」岐阜県飛騨市
※国史見在社。
●加賀国江沼郡・気多御子神社
比定社「気多御子神社」石川県小松市
●越中国射水郡・気多神社
比定社「気多神社」富山県高岡市
※名神大社・越中国一宮。
●越後国頸城郡・居多神社
比定社「居多神社」新潟県上越市
※越後国一宮。
●但馬国気多郡・気多神社
比定社「気多神社」兵庫県豊岡市
※但馬国総社。
古代における「氣多大社」の神威がどれほどのものか、よくわかります。
前回記事の「氣比神宮」もそうでしたが、旧字体の「氣」という文字がいいですね
駐車場🅿️の一画に、砂で造られたこんなものが
御祭神とか社殿とか、細かく造られていて驚きでした
のと里山海道は、とても気持ちの良い高速道路、しかもここまでなんと無料でした
半日お世話になったレンタカー
海無し県の埼玉県民にとっては、海しかも日本海なんて超レアです
朝鮮半島まで見えそうなくらいでした
縁起物の「氣」もいただきました。
ここは我が家のパワースポットです
【「気」と「氣」の違い】
昭和20年(1945年)に日本が敗戦する以前は「氣」という漢字を使用していましたが、終戦後に「氣」を旧字体とし「気」に変換されました。
「き」の言霊は「エネルギー」を意味しています
「気」は「气(きがまえ)」に「メ」と書き、「〆る(しめる)」という意味があります。
「気」は、エネルギーを外に「出さない」ようにするための文字とのこと。
「氣」のほうは、「气(きがまえ)」に「米」と書き、「八方に広がる」という意味。
「氣」は、エネルギーが「八方に広がる」という文字です。
さらには、日本人は「米」🌾と共に生きてきた民族です。
先人たちが、「氣」に「米」を入れたのは、主食のお米に秘められているエネルギーを感じ取っていて、
お米を食べることは体に「氣」を取り込み命を養う、という意味があったのではないでしょうか。
※ネット記事より抜粋。
北陸の神社巡りは次回に続きます
最後までお読みいただき、ありがとうございました