皆さま、おひさしぶりです
またまただいぶ間が空いてしまいました
2023年10月19日参拝。
北口本宮冨士浅間神社
富士急行線・富士山駅よりバス
【富士急モビリティ河口湖線】
御殿場駅行「浅間神社前」下車すぐ。
富士山駅のホームに降りようとした時、先に降りた外国人から「オーマイガッ」の声。
お~
埼玉県から見るのとはサイズが違う。
国道137号線に立つ
金鳥居(一の鳥居)。
鳥居の中にちゃんと富士山が見えるのです
バスの「浅間神社前」を降りると、すぐ参道です。
二の鳥居。
並んだ石燈籠は、村上光清(角行から数えて6世の行者)の富士講が奉納したもの。
途中で少しの石段。
参道右手に角行の立行石。
慶長15年(1610年)の冬、角行は酷寒の中を裸身でこの石の上に爪先立ちして、30日の荒行をしたと伝わります。
全身から血を噴き里人に行を止められたとのこと
左手には仁王門礎石。
神仏習合時代には、三重塔・鐘楼・仁王門など仏教色の濃い堂塔がありましたが、明治元年に撤去されています。
ん
今、なんかすごく見覚えのあるマークが目に入った気が…
これって、我が「田子山富士」のオリジナルだったよね?
な、なんと
田子山富士保存会の副会長で、いつもボランティアで大変お世話になっている深瀬さんに遭遇
志木市の「母子保健推進員連絡協議会」の皆さまをご案内中でした。
あまりにも知り合い過ぎて、誰だったか一瞬考えちゃいました
初めてお会いする皆さんにもご紹介いただき、偶然を喜んでくださり、記念撮影することに
田子山富士の旗を持たせていただきました
それにしてもこの時間(10:50)にもう帰りとは、どんだけ早く出発したんだろ
赤い鳥居が見えて来ました。
鳥居の手前に神橋。
下を清らかな水が流れています
正式名称は「冨士山大鳥居」。
その名の通り富士山の鳥居とされ、社殿が建つ以前からあったとされます。
『甲斐国 社記・寺記』によれば、日本武尊が当地で富士山を遥拝した時に大鳥居を建てたとのこと。
高さは15m以上あり、木造の鳥居としては日本最大級の大きさです。
後陽成天皇の弟・良恕法親王の筆によるもので、日本・中国・インドの三国で一番高い山を意味します。
「三国」は江戸時代には世界を意味する言葉だったので、すなわち「世界一の山」ということ。
富士山の鳥居であることを示すものです。
60年をもって式年と定められ、建て替えあるいは修理が行われ、現在の大鳥居は、昭和29年(1954年)の造営、平成26年(2014年)に修理されたものです。
隨神門。
【御祭神】
向かって右が
櫛磐間戸命 くしいわまどのみこと
向かって左が
豊磐間戸命 とよいわまどのみこと
隨神門をくぐるとすぐに、
神楽殿。
村上光清を中心とした富士講中により建立され、現在でも富士山御師より継承した太々神楽が奉納されています。
※北口本宮冨士浅間神社・冨士太々神楽Facebookより
手水舎
赤や紫のオーブがいっぱい映ってしまいました。
神楽殿と同じく、村上光清を中心とした富士講中による装飾性の高い手水舎です。
社殿の左手前にあるのが、
冨士太郎杉。
樹齢約1,000年で、山梨県の天然記念物の第一号に指定されています。
2本のヒノキが根元で1本になっていることから「冨士夫婦檜」と呼ばれています。
拝殿
景行天皇40年(110年)、日本武尊が東征の帰り、足柄の坂本(相模国)より酒折宮(甲斐国)へ向かう途中で当地の「大塚丘(おつかやま)」に立ち寄られました。
そこから富士山を遥拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と言われました。
これに従い、里の人々は「大塚丘」に鳥居を建て、後の景行天皇50年(120年)、干支が庚申(かのえさる)の時に祠を建て※
浅間大神と日本武尊をお祀りしたのが起源です。
※については後ほど。
天応元年(781年)に富士山の噴火🌋があり、甲斐守・紀豊庭朝臣が卜占し、延暦7年(788年)、「大塚丘」の北方(現在地)に社殿を建立。
ここに浅間大神を遷座し、「大塚丘」には日本武尊をお祀りしました。
富士山の神を祀る浅間神社は、全国に約1,300社ありますが、最も多くの浅間神社が集中しているのが富士山麓です。
「北口本宮冨士浅間神社」は、富士山の北側に数多くある浅間神社の中心となってきた神社で、吉田口登山道の起点でもあります。
大きな唐破風造の向拝の下。
【御祭神】
《浅間大神》
木花開耶姫命
このはなさくやひめのみこと
彦火瓊瓊杵尊
ひこほのににぎのみこと
=木花開耶姫命の夫
大山祇神 おおやまづみのかみ
=木花開耶姫命の父
富士山の神の名は、浅間大神・浅間大菩薩・赫夜姫(かぐやひめ)など、さまざまに呼ばれて来ましたが、江戸時代以降は『古事記』や『日本書紀』に記される木花開耶姫命が定着します。
またもや赤と紫のオーブ
社殿の左側へ回ります。
社務所。
村上光清同行の灯籠。
宝暦6年(1756年)の奉納。
造立された当初の部材を多く残す唯一のもので極めて貴重とのこと。
この建屋は神饌所 不明です。
透塀は、幣殿と接続しています。
冨士次郎杉。
ご本殿の覆屋。
比較的大きめで、漆塗に彫刻、金具を用いた豪華絢爛な社殿です。
ご本殿の後方、左の奥に、
神武天皇社。
【御祭神】
神日本磐余彦天皇
かんやまといわれひこのすめらみこと
その右、ご本殿の後方左手に
東宮本殿。
【御祭神】
彦火火出見尊
ひこほほでみのみこと
現社殿は、武田信玄が川中島合戦の戦勝を祈願して造営したものです。
社殿を横から
ご本殿の真裏、ご本殿を囲む透塀と一体化した
惠毘壽社。
【御祭神】
大国主神 おおくにぬしのかみ
=大黒天
事代主神 ことしろぬしのかみ
=惠毘壽
そのままご本殿の裏を進むと、東宮と左右対象のお宮があります。
西宮本殿。
【御祭神】
天照大神 あまてらすおおみかみ
豊受大神 とようけおおかみ
琴平神 ことひらのかみ
谷村城主・浅野左衛門佐氏重により、東宮に代わる本殿として造立されましたが、元和元年(1615年)の本殿建立により現在地に移され西宮となりました。
その右手に、
小御岳社遥拝所
その右手に石段があり、
冨士北口登山本道の碑。
登山者は神社に参拝したのち、この神社裏手の登山道から富士山頂を目指します。
神社の裏手に登山口がある、田子山富士も同じ造りです
私はこの日もちろん富士登山はしませんでしたが、「北口本宮冨士浅間神社」の起源である、徒歩5分の「大塚丘」へは行きました。
その他まだまだ境内社がたくさんあるため、つづきはpart2へ。
【庚申御縁年(こうしんごえんねん)について】
富士山は、第6代・孝安天皇92年の庚申年(紀元前301年)に初めて人々の前に姿を現したという伝説があります。
「庚申(こうしん)」=「かのえさる」は、十干と十二支を組み合わせた暦「干支」の1つで、よく知られる丙午(ひのえうま)と同じく、60年に1度巡って来ます。
この庚申の年に富士山が誕生したという伝説により、祝福すべき年とされ、室町時代頃からこの年には大勢の人々が富士山を目指すようになります。
江戸時代の寛政12年(1800年)や万延元年(1860年)の「庚申御縁年」には、特に次の3点が広く告知されました。
①通常登山期間は旧暦の6、7月だが、4月~8月まで延長される。
②通常登山前に行う100日間にわたって身を清めることは不要となる。
③通常二合目までしか登ることが出来ない女性も、四合五勺まで登ることが許可される。
③は、田子山富士でも時々ご説明させていただいています。
このような告知を担ったのは、上吉田で富士登山者のための宿坊を営む御師で、「北口本宮冨士浅間神社」の宣伝にも力を入れていたことがわかっています。
【御朱印】
絵馬は奉納せず、神棚の下の棚に飾りたかったので持ち帰りました。
眺めていると、パワーがいただけるような気分になります
次回参拝する時にお納めしようと思います。
念願だった「北口本宮冨士浅間神社」やっとお参りすることが出来ました
記事にするのが遅れてしまいましたが
静岡県の「富士山本宮浅間大社」は、カラっと明るい気の神社でしたが、
こちらは空気がしっとりとして、それでいてとても爽やかな気の神社でした
個人的には山梨県側のほうが好きです
次回、part2へつづきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました