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家族の闘病記録と日々の暮らし

愛犬マルチーズ ロンとの生活を書いていました。
しかし、楽しい思い出を残して
2016年2月12日に16歳で虹の橋に旅立ってしまいました。このブログには、ロンの話だけ残しました。
今は、家族の闘病記録を備忘録として書いています。

介護申請して、

すぐ地域包括支援センターの係から

連絡あり
急を要する患者という事で
迅速に対応して頂いています。

初めての事で、

どこと何を契約したら良いのか

分からないまま、進んでいきます。


昨日は、訪問看護ステーションと

面談があり、契約しました。


毎週一回、看護師訪問になりました。


介護認定員が来訪された時は、

今みたいに息切れや酸素吸入が
酷い状態でなかったと、

今更ながら思います。


昨日などは、歯磨きも出来ず、

寝たまま、歯ブラシ、コップを

渡してしていましたが、
洗面所で顔を洗おうとしたら
息苦しくなり、酸素濃度78、
ハア、ハア、と苦しそうでした。


昨日は、ケアマネージャーの方が来訪され

詳しく話しを伺う事が出来ました。


でも判定まで、

どれぐらい待たなきゃいけないのか

分からず、

そちらの方は、これからです。


しかし看護師さんが決まった事は、

私達にとって安心感があります。

オプションで24時間対応も契約しました。


在宅医はまだ決まっておらず

24時間対応の医師、

看取りまで診るという医師は少なく

隣町の方が多いそうです。


そうすると2時間ほど

時間がかかるという事で

これでは、間に合わず苦しむだけです。


私はそばにいるだけで、

励ましたり、辛さを聞いてあげる事だけしか出来ません。


酸素ボンベも残り少なくなって来たので、担当の方に連絡してあります。


明日は、母の家の残置物撤去の

業者さんが入ります。


息子と交代で夫の様子見ながら、済ませるつもりです。




葬儀の為、一泊で実家(妹の家)に

行って来ました。

その間、次男に看護を頼みましたが、

さぞかし、心配だった事でしょう。

帰宅するなり、

「父は、分離不安症になっていた。

母でないと駄目だった」と嘆いていた。


まるでワンコの時と一緒だったそうです。


息苦しさがあり、

吐いたり下痢したり、

心配な事ばかりだったそうです。

あまり、そばにいる人が動揺すると、

ますます病人は不安になったのでしょう。

一日で根を上げてた。
でも私は毎日してるんです。

それでも私が通院する時は、
夫の容体を見ていて欲しい。


三年間、ほったらかしだった

脊柱管狭窄とすべり症の術後の

経過観察に行く事にする。


主治医はもう辞められ、

新しい医師になる。


5分も歩くと腰、股関節、左脚が痛くなり

動かなくなる。


どんな診断をされるか不安でたまらない。


今は、自分の事は後回しになってる。

どうしたものか?思案中です。

母が鬼籍に入り、

通夜と告別式に帰省した。


コロナ禍と家族の病の為、

中々会いに行く事が叶わなかった。

入院して1週間で逝ってしまい、

告別式が終わっても
まだ嘘じゃないか?と思ってしまう。

入院前夜、母と電話で話した。


私は、脚の浮腫みをとる為の入院と

思っていたので、「○ぬかも知れない」と

気弱な母に「もうすぐ会えるから、気をしっかり持って治療してね」


そんな言葉が、

最期の言葉になってしまった。


自宅では、夫が酸素を使って

息苦しさを緩和する状態で

次男に夫の看護を頼み

長男に助けてもらいながらの帰省だった。


家族葬にしたけれど、

叔父と自治会長だけに伝えてあった。

それでも

母を姉のように慕っていた伯母と従兄

地域の方々は通夜の始まる前に

お別れに来て下さった。


私は喪主だったが、

義弟が全て私の代わりをしてくれて

有り難かった。


母は穏やかな顔をしていた。

苦しまず父や弟のもとに

旅立ったと思っている。