青いパパイヤの香り ネタバレ~起承転結無視?!物語性のない映画・ストーリー軽視の映画 | 映画 ネタバレ・あらすじ・結末 最終回まで~ドラマもね

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映画ネタバレ~つまらない映画

青いパパイヤの香り ネタバレ~起承転結無視?!物語性のない映画・ストーリー軽視の映画



カンヌ国際映画祭などで、それなりの受賞をしている事を思えば、そういった映画の専門家からすれば、
必ずしも映画にキチンとしたストーリー性がなくてもいいのでしょうね。
どうやら、それ以外の他の面で評価なさるようで「つまらない映画」とはならないらしい。
けれど、映画にエンタメ性やストーリー性を求める私のような、ありふれた凡庸な人間からすれば
この『青いパパイヤの香り』は、間違いなく「つまらない」映画でした。

一般的な映画(と言うか物語全般)は、起承転結で構成されています。
もしかしたら、そういった一般的な映画を、芸術的な映画を作ろうとしている方々は
「ベタやなぁ…【君はBETA】\_(・ω・`)」と、冷ややかな目で見ているのかもしれませんね。

もちろん、映画には、さまざまな映画があって、ストーリーの面白さを追求した映画ばかりではなく、
それ以外のもの…例えば、この『青いパパイヤの香り』で言えば映像美だったり、音楽であったり、異文化圏の日常と季節感を垣間見る楽しみだったりするのでしょう。
それ故に「つまらない映画」と言い切ってしまうのは間違いで、ホントは「観る人を選ぶ映画」と言わなくてはいけないのかもしれない。

「選ばれざる観客」の私なんかが物申すのも口幅ったいのかもしれませんが…一応、このブログを読んで下さってる方々は、
私と同じく映画に物語性やエンタメ性を求めていると信じて書きますね。

この映画、起承転結構成ではないです。
起転結で、しかも結のところが、どういう結なんだか今一よくわかりませんでしたわ。

青いパパイヤの香り 概要



1993年フランス公開/1994年日本公開の映画。
監督:トラン・アン・ユン
脚本:トラン・アン・ユン
言語:ベトナム語
ジャンル:不明
上映時間:104分

ベトナムとフランスの共同制作。


青いパパイヤの香り ネタバレ・あらすじ



1951年、ベトナムのサイゴンの、ある暑い夏の日。
とある富裕層の商家に雇われるために、田舎からやってきたムイは、まだ10歳のあどけない少女。

この家の主人は浪費家で、商売にも身が入らない怠け者であったが、
妻は働き者で優しく、3人の息子らは皆、甘やかされていた。
もう一人の家族である祖母は、孫娘をまだ小さいうちに亡くしてから、ずっと自室に引きこもっていた。
妻は優しくムイを迎え入れて、使用人なのに、まるで実の娘であるかのように何かと気に掛けてくれた。

ムイは、日々、年長の先輩奉公人のそばで働きながら、料理と掃除を習い一家の雑事を懸命にこなしていく。
そんなある日、主人が一家の蓄えを持って姿を消す。
実は、この家の主人が、このように行方をくらますのはこれで4度目の事。
その昔は、娘がまだ幼くて病気を患っていた時に姿を消したがために、娘は満足な治療を受ける事が出来ず命を落とした。
その事に、主人は心を痛め、それ以来、この悪癖を二度と繰り返さないと心に決めていたというのだが…今回、またしても、悪癖が繰り返されてしまった。
残された家族は、またしても経済的な苦境に陥る。
そんな時、長男が家へ連れてきた友人クェンに、ムイは淡い恋心を抱く。

時は流れて10年後。
美しく成長したムイは、働きなれた商家を離れて、音楽家となったクェンの家に雇われる事となった。
クェンには婚約者がいたが、やがて二人は恋仲となり…婚約者は嫉妬の炎をメラメラと燃やす。
クェンが婚約者と破断になったのか否かは定かではないが、それからというものムイはクェンに読み書きを教わり、
綿が水を吸収するように教養を身につけていった。

それ以降、特に2人に何か進展があったような描写はされておらず、ラストは美しいパパイヤの果肉色のドレスを着たムイが、
籐の椅子に腰掛けて、クェンに詩を朗読して聞かせる。
カメラがムイの背後に置かれた仏像を映し出すというシーンで映画は終わる。



青いパパイヤの香り 感想



主人公の少女のムイは健気で可愛い。

タイトルからすれば、少女の恋愛感情は、この映画の中で、かなり重要な部分だろうと思われるのに、
少女が、クェンに見惚れるシーンが一度きりしか出て来ないので、それ以降も胸に恋心を抱き続けていたとは、気付きにくい。

なぜならばカメラは、その他の雑多なムイと一家の日常生活を追っており、
ムイが日々の家事をこなす様子、日常の中でのそれぞれの家族との小さなエピソードや会話、
家の周囲の自然、それに目をとめるムイの表情などなど、幾つもの視点の連写の数珠繋ぎが映し出され、
特にその部分にフォーカスされて丁寧に描かれているわけでもないからだ。
そのせいなのか…私には、どうにもこの映画のメッセージ性の収まりが悪いように感じられる。
「ジグゾーパズルのピースをはめるように小さなエピソードを繋ぎ、完成したら、その全体から受けるイメージが、すなわちこの映画です。」
とでも言いたいのだろうか?

亡くなった娘の遺影がのっぺりと白飛びしていて、なんだか気持ち悪い。
一体、当時のベトナムの写真技術はどうなっていたのでしょうか?ww