最近忙しく、またまた間が空いてしまいました~
9月24日(日)~26日(火)に、北陸旅行へ行って来ました💨
前回からのつづきです。
2023年9月25日参拝。
白山本宮・加賀一ノ宮
白山比咩(しらやまひめ)神社
【電車】
北陸鉄道石川線・鶴来駅より
【加賀白山バス】瀬女行き「一の宮」下車徒歩5分。
【車】
北陸自動車道・美川ICより約20分、
金沢西ICより約30分。
社号碑。
一の鳥居。明神鳥居です。
高さ6.4mの石造りの大鳥居。
昭和11年(1936年)の建立ですが、それまで「白山比咩神社」には長らく鳥居がなく、白山七不思議の1つと言われていました
一の鳥居をくぐり、突き当たりを右に折れると神橋。
ここから約250m、杉やケヤキ、カエデなどに覆われた長い参道。
空気がひんやりと清々しい
緩やかに上って行きます。
右手に見える、注連縄が掛けられている木は、御神木の老杉です。
樹齢約800年。白山市指定天然記念物とのこと。
その先左手に手水舎
二の鳥居。
ここからは急な石段です。
三の鳥居。
右手に大ケヤキ。
北参道鳥居。
触穢(しょくえ、そくえ)とは、神道において「不浄とされる穢に接触して汚染されること」を意味します。
神道においては、人間・動物の死と出産、女性の生理は「三不浄」として忌避され、また、血の流出や国津罪に相当する病気にかかる事も穢であると考えられていました。
「触穢の所」というのは、「触穢を祓うところ」=「祓戸」という意味でしょうか。鳥居をくぐる時に祓われるということ
鳥居をくぐって左手に手水舎
「延命長寿の霊水」として名高い、白山水系の伏流水です。
霊峰白山に源を発し、加賀平野を貫いて日本海へと注ぐ全長約77kmの手取(てどり)川は、日本有数の急流河川。
白山山頂から流れる雪解け水は、手取川(石川県)、九頭竜川(福井県)、長良川(岐阜県)、庄川(富山県)の4水系になり、大地を潤します
白山は、4つもの県を潤しているのですね
参道にそびえ立つ杉の木。
大きさがわかりやすいように、人間(夫です)を置いてみました。
先ほどの御門を北参道側から
2つの参道が合流して、
神門。
式内社でもある「白山比咩神社」は、古来より「下白山」と称えられ、現在は「白山本宮」「加賀一之宮」として仰がれ、「白山さん」として広く親しまれている北陸鎮護の大社です。
遠く神代の昔、霊峰白山を御神体山として白山比咩大神をお祀りしたことが起源とされます。
崇神天皇7年(紀元前91年)、本宮の北にある標高178mの舟岡山に神地を定めたのが創建と伝わります。
応神天皇28年(297年)には手取川の河畔「十八講河原」へ遷りましたが、氾濫のためしばしば社地が崩壊するため、
霊亀2年(716年)に、手取川沿いの「安久濤(あくど)の森」に遷座しました。
木曽義仲・源頼朝・源義経などにより厚い崇敬を受けますが、
文明12年(1480年)の大火によって、40余りの堂塔伽藍がことごとく焼失。
長享2年(1488年) 、末社三宮が鎮座していた現在地へ遷座し、本宮鎮座の地と定めました。
明治の神仏分離後、明治10年(1877年)、「下白山」=「白山比咩神社」を本社とし、山頂の祠「白山天嶺」を奥宮と定めます。
大正3年(1914年) 、国幣中社に昇格しました。
戦後は、全国に3,000有余を数える白山神社の総本社として「白山信仰」の中心をなしています。
幣拝殿
拝殿と幣殿は一体化しています。
内部は総檜造りで、ご本殿とは30段の木階登廊で結ばれています。
【御祭神】
●白山比咩大神
しらやまひめのおおかみ
=菊理媛尊 くくりひめのみこと
●伊弉諾尊 いざなぎのみこと
●伊弉冉尊 いざなみのみこと
【菊理媛尊について】
『日本書紀』によると、
イザナミが火の神・カグツチを出産した時の火傷で亡くなり、悲しんだイザナギは妻を連れ戻そうと「黄泉の国」へ行きます。
ところが、醜く変わり果てた妻の姿を見て逃げ出し、怒ったイザナミは夫の後を追います。
黄泉の国とこの世の境界・黄泉平坂で言い争いになった2人の前に登場し、イザナギ・イザナミ2神の仲裁をするのが菊理媛尊です。
※菊理媛尊が2人にどんな助言をしたのかについては、一切記載がありません。
菊理媛の「くくり」は「括る(くくる)」にもつながり、和合の神・縁結びの神として信仰されています。
他にはこんな説も。
●あの世の代表者・イザナミと、この世の代表者・イザナギの仲介という役割は、神や死者と人間の間を媒介する霊能力を備えた巫女や霊媒師を連想させる。
山の神に仕える巫女の神格化で、山の神と交信し託宣するイタコの祖神とも言われる。
※戸部民夫『日本の女神様がよくわかる本』PHP文庫 より抜粋。
●ホツマツタヱでは、
キクキリヒメ(菊理姫)はイザナギの姉・アマテラスの伯母。
アマテラスが生まれた時の声を「大日霊貴(ウヒルギ)」(=男神)と【聞き取る】=キクキリ。
亡き妻の後を追うイザナギに「行ってはいけない。亡き妻を見てはいけない。」と言った。
※小深田宗元『読み比べ 古事記とホツマツタヱ』かざひの文庫 より抜粋。
拝殿の天井近くには、「疫病退散・ヨゲンノトリ」というのがたくさん掛けられていました。初めて見たな
ご本殿は、ぐるっと回ってみたけれど目にすることは出来ませんでした。
ご本殿なのだからそれでよいのです。
明和7年(1770年)に、加賀藩10代藩主・前田重教(しげみち)の寄進によって造営されたものとのこと。
拝殿の手前左手に
御神木(三本杉)。
昭和58年(1983年)5月、石川県で開催された「第30回全国植樹祭」において、昭和天皇が杉の種をお手まきされました。
その時の苗木を御神木として植樹したものだそうです。
神馬舎
白山比咩大神を乗せて白山に登拝するといわれる神馬の姿を、白山麓の大ケヤキで奉製し、絢爛豪華な装飾が施されています。
【白山信仰について】
富士山・立山と並ぶ「日本三名山」の1つ白山は、古くから神の聖域として仰ぎ見る存在でした。
麓に暮らす人々にとって、生活に不可欠な命の水を供給してくれる「白き神々の座」でした。
北陸は『日本書紀』の時代には「越の国」と呼ばれており、白山は古くは「越のしらやま」と呼ばれていました。
6世紀に大陸から仏教が伝わると、山への信仰は登拝という形に変化し、超人的な力を身に付けようとする修行の場として開拓されていきました。
初めて白山に登拝したのは、越前(福井県)の僧・泰澄(たいちょう)。
霊亀2年(716年)、夢で女神より「白山に来たれ」とのお告げを受け、白山登拝を決意。養老元年(717年)山頂に到達し、翌年山頂に奥宮を祀りました。
以来、白山信仰は急速に全国に広まり、
白山登拝も盛んになり、修行登山路は「禅定道」として発展していきます。
『白山之記』によると、
天長9年(832年)、白山登拝の拠点となる「三馬場」=加賀(石川県)・越前(福井県)・美濃(岐阜県)が開かれ、全国から修験者(山伏)が集まりました。
「白山比咩神社」は、加賀馬場の中心として栄え、比叡山延暦寺の末寺として北陸道全域に勢力を及ぼしました。
「馬場」という呼び名の由来は、
①白山へ登る際、馬でそこまで行き、馬を繋ぎ止めておいた場所、あるいは、
②馬がそれ以上進めない神域への入口、
という説が残っています。
加賀馬場(石川県)の中心が「白山比咩神社」。
越前馬場(福井県)の中心が「平泉寺白山神社」。
美濃馬場(岐阜県)の中心が「長滝白山神社」です。
拝殿の右手に、遊神殿。
平成20年(2008年)に御鎮座2,100年を記念して新築され、参拝者の受付・控室・休憩所として利用されています。
その手前右手に、清め砂。
神門をくぐった右手に、
白山奥宮遥拝所
白山山頂の奥宮を拝む遥拝所です。
大汝峰・御前峰・別山の「白山三山」の形をした大岩が祀られていて、
毎月1日と15日の月次祭では、神職による遥拝が行われています
霊峰白山は、最高峰の御前峰(2,702m)を中心に、大汝峰(2,684m)、剣ヶ峰(2,677m)、別山(2,399m)を主峰とする峰々の総称。
奥宮は最高峰の御前峰頂上に祀られています。
1億年余り前には湖底にありましたが、少しずつ隆起し何度も噴火🌋を繰り返して、現在の姿になりました。
前々回の「氣比神宮」、前回の「氣多大社」は、海人族(渡来人)の神社でしたが、
今回の「白山比咩神社」は山岳信仰の神社でした。
普段、田子山富士でボランティアをしているのもあり、私にとっては、信仰の山=富士山ですが、北陸地方の人にとっては白山なのですよね。
長文の記事に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました