9月24日(日)~26日(火)に行って来た、
北陸旅行のつづき。
今回がラストです
2023年9月25日参拝。
尾山(おやま)神社
JR西日本、IRいしかわ鉄道、北陸鉄道・金沢駅東口より
【北鉄バス】【西日本JRバス】「南町・尾山神社」下車3分。
社号碑と鳥居。
えこれ神社だよね
神門。
明治8年(1875年)の建築。
和漢洋の3様式を取り入れた斬新なデザインの門として全国に知られ、兼六園と共に金沢市のシンボルになっています。
注連縄に紙垂。ホッとします
裏側からも
第1層は戸室石(角閃安山岩)。
第3層は四面五彩のギヤマン(ガラス)張りで、かつては御神灯が点灯されて金沢の街を照らし、遠く日本海を航行する船の目標ともなっていたそう。
天辺に設置された避雷針は、日本最古のものです。
手水舎
前田利家公は文武兼備の名将として名高く、多くの人々に敬い慕われていました。
慶長4年(1599年)3月、利家公が薨去すると、2代・利長公は、利家公を仰ぎ、神として祀ろうとしましたが、当時の前田家は外様大名の立場。
徳川幕府の許可なくして、勝手なことは出来ません。
そこで利長公は、守護神としていた「物部八幡宮」ならびに「榊葉神明宮」を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し(=「卯辰八幡宮」)、利家公の神霊を合祀しました。
拝殿
【御祭神】
前田利家公(加賀藩・初代藩主)
松子命=お松の方(利家公の正室)
文武両道・必勝祈願・夫婦円満・子宝安産の神として知られます。
拝殿内部。
廃藩置県後の明治6年(1873年)、金沢城の出城である旧金谷御殿の跡地(現在の社地)に社殿を新築遷座。
「尾山神社」と称して、郷社に列せられます。
翌明治7年(1874年)には県社に昇格、明治35年(1902年)には別格官幣社に列せられました。
現在は神社本庁の別表神社になっています。
平成10年に、正室であるお松の方を合祀。
金沢市民の心の拠り所として親しまれています
拝殿前の少し高い場所から、神門を振り返ってみます。
神門からは「前田家の威光を象徴するような建築物を造ろう!」という意気込みが感じられ、伝統を守りつつも、新しいものを柔軟に取り入れる金沢人の気風や美意識が表現されています。
現在は国の重要文化財に指定されています。
ご本殿
三間社流造。
珍しいレンガ造りの瑞垣には、剣梅鉢の紋。
ご本殿の右手に、
摂社・金谷神社。
【御祭神】
2代藩主・前田利長公をはじめ、3代から17代までの藩主・当主と
その正室(奥方)。
【歴代藩主・当主】
・2代藩主・利長公(としなが)
・3代藩主・利常公(としつね)
・4代藩主・光高公(みつたか)
・5代藩主・綱紀公(つなのり)
・6代藩主・吉德公(よしのり)
・7代藩主・宗辰公(むねとき)
・8代藩主・重熙公 (しげひろ)
・9代藩主・重靖公 (しげのぶ)
・10代藩主・重教公 (しげみち)
・11代藩主・治脩公(はるなが)
・12代藩主・齊廣公(なりなが)
・13代藩主・齊泰公(なりやす)
・14代藩主・慶寧公 (よしやす)
・15代当主・利嗣公(としつぐ)
・16代当主・利爲公(としなり)
・17代当主・利建公(としたつ)
東神門(裏門)。
旧金沢城の二の丸御殿にあった唐門を、昭和38年(1963年)に移築したもの。
総ケヤキ造りで釘は1本も使っていないそう。
金沢城は江戸・明治の火事でことごとく焼失したため、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物です。
この門が幾多の火災に遭っても難を逃れたのは、門に彫られている2匹の龍が水を呼んだからという言い伝えがあるそうです
この東神門の向こう側が金沢城跡と金沢城公園、金沢城公園を経由して兼六園へと抜けられます。
神苑(楽器の庭)。
「尾山神社」は加賀藩主の別邸・金谷御殿があった場所に建っていますが、神苑も金谷御殿の一部で、江戸時代後期から明治初期にかけて形造られた池泉回遊式の美しい庭です。
「鳳笙島」「琵琶島」「鳥兜島」「琴橋」など、池に浮かぶ島や橋に雅楽にちなんだ名前がつけられているため、別名「楽器の庭」と呼ばれます。
今回の北陸旅行は、北陸の一之宮3社にお参りするつもりで、この「尾山神社」は予定にはありませんでしたが、
宿泊したホテルのすぐ隣りだったため、珍しい神門が目に入り、参拝してみました。
普段、歴史上の人物が祀られている神社へはほとんど行かないのですが、地元金沢の人に愛されている神社だということが伝わって来る、とても明るい雰囲気の神社でした
今回で北陸の神社のご紹介を終わります。
お付き合いいただき、ありがとうございました