神聖寺 隆健 090-3085-9732

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神聖寺 隆健 (しんしょうじ りゅうけん)
真言宗、法事と供養、仏教世話ばなし






上の梵字は私、隆健の筆による、サンスクリット語・般若心経からの一文字です。
ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝。
つぶやきを進めましょう。

『念』の作用で『こころ』を動かすことを『観法』と言います。
真言密教には『あ』・『うん』と言う言葉があります。
曼荼羅で例えるならば、胎蔵曼荼羅が『あ』、金剛界曼荼羅が『うん』です。
『あ』は吐き出す息を表します。
『うん』は吸い込む息を表します。

これを『アン』と繋げて並べますと・・・。
『あ』(呼気)➡『アン』(呼吸)➡『うん』(吸気)となります。
『あ』は『吐き出す息』、『うん』は『吸い込む息』ですが、ここから『呼吸する・生きている』と言う『生命(アン)』がこの世に誕生します。
この『あ』と『うん』の『息』は『生命』が必ず持っている『念』と言うものと同一視されるようになります。

『息』=『念』です。
やがてこの『念』の作用で『こころ』を動かすことを古代インドの瑜伽師・阿闍梨は発見しました。
『念』の作用で『こころ』を動かすことを『観法』と言います。
『こころ』とは何か?
『心(しん)』とは一体、何?
『私』とは何?
出てきたものは古代インド『アートマン』の原典・『アン(呼吸する)』でした。
やがて『アン(呼吸する)』から『あ』『うん』の『息』に繋がりました。
そして『息』から『念』、『念』から『観法』へと・・。
次回は・・・「『あ』=吐き出す息」から『観法』にまで昇華した『念』の世界、『あ字観』について、改めてご案内しましょう。
みなさん真言密教『あ字観』の世界は単なる坐禅『瞑想』ではありません。
『念』を必要とする『観法』なのです・・・
次回をお楽しみに!
またまた長くなってしまいました・・謝・謝
〔注〕(密教をお勉強のみなさまに)
『国訳一切経(和漢撰述部71・経疏部15=大日経疏・下)』(大東出版)
大日経疏(沙門一行阿闍梨記)』は善無畏の弟子・沙門一行阿闍梨の『大日経』の解釈・注釈書です。
ここで那須政隆(故人)先生が大日経疏(沙門一行阿闍梨記)』を『読み下し文』で解説しています。
『大日経・百字位成品第21章の『百字』の意味を、ここで解いています(618ページ)「『百字』とは『百光遍照王の真言』なり。いわく『アン字』これなり」と。



上の梵字は私、隆健の筆による、サンスクリット語・般若心経からの一文字です。
ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝。
本日は子供の日。端午の節句です。鯉のぼりを空に見て、柏餅を食べて、菖蒲湯に!

さあ~、つぶやきを進めましょう。
『こころ』から『観法』の世界へご案内(序文)。
『こころ』とは何か?
『こころ』とは『心(しん)』と『感情』がセットされたものです!
『心(しん)』とは一体、何?
『心(しん)』とは『生命』であり・『呼吸』であり・『生きている』を表すものです。

これらを一つにまとめると・・・現代では『私』を表す言葉とも言えましょう。
以前、ウパニシャッドの世界のご案内で『我(私)』を取り上げたことがありました。
『私』とは何?
この『私』を探求することによって、古代インド人は人間個体の本質たる『アートマン(自己・自我・私)』の存在を発見しました。
この『アートマン(私=我)』を派生させたのが『アン(呼吸する』なる言葉でした。

『アートマン(私・我)』を生み出した『アン(呼吸する』の言葉は、やがてサンスクリット語・文字が発明された時、重要な『アン』の文字となり密教経典に登場となります。
その密教経典の中で『アン字』は普賢菩薩を表す『真言文字』となり、『百光遍照王真言』とも呼称される『文字』となったと言うことも以前、このブログでご案内しました。

〔覚えていて下さっていると嬉しいのですが~〕
〔『過去は忘却なり』も・・また重要な哲学です〕
〔あははは・・私などは毎日です!〕
『アン(呼吸する)』を中心として、その前後に『言葉』があるのです。
『あ』・『うん』です。
次回に『あ』・『うん』についてご案内しましょう。




上の梵字は私、隆健の筆による、サンスクリット語・般若心経からの一文字です。
ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝。

つぶやきを進めましょう。
『心(しん)』と『感情』についてのつぶやきに戻りましょう!
以下に、具体的に申し上げましょう。
『心(しん)』を純粋な『水晶の玉』と考えてもよろしいです。
『水晶の玉』を赤紙の上に置きますと『ルビー』に視えます。
『水晶の玉』を青紙の上に置きますと『サファイヤ』に視えます。
『水晶の玉』を緑紙の上に置きますと『エメラルド』に視えます。

『水晶の玉』はいつまでも純粋な『水晶の玉』です。
置いてある色紙によって視えように変化があるのです。
〔どうやら『感情』の在り方が視えてきましたね~〕

この『色紙』による視えようの変化を『感情』と言います。
世に『二重人格』と呼ばれる人がありますが、自心の中に『水晶の玉』を二つ持っているわけではありません。
『心(しん)』はひとつの生き物にたった一つしかありません。
『心(しん)』が『消滅』すれば『二重人格』者も消滅します。
『二重人格』も『色紙』の変化による現象です。
『心(しん)』は誕生するや、必ず『色紙』による変化を受けます。
それが『心(しん)』の『宿命』でしょうか!
その『宿命』たる世界を大乗仏教では『欲界』と言います。
そして人間の一生を通して、あらゆる問題がここから生まれます。
ついでながら『欲界』とは『欲望の界』ではありません。
生命あるものは『物質』を認識することによって何らかの感情が起こり、考え・行動します。
・・・この在り様の世界を『欲界』と呼称します。
真言宗・阿闍梨・隆健も、毎日、この『欲界』で泣いたり・笑ったりです。
一生、覚りには縁の無い、隆健です。