【短編小説】 「えんか」 ① | 失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

自ら作家と名乗る人間にろくな者はいないでしょう,他の方はともかく。私は2000年、脳出血を患い失語症になりました。そしてリハビリの一環として文章書きをしています、作家のように――。
何はともかく、よろしく!  (1941年生まれで、現在・80歳になる単なるじじい)

   

 

    かなりサボっていましたが、

         短編小説を発信します。

 

 

 

 

【短編小説】

「えんか」  ①

 

 

 春の嵐が過ぎると気温がグンと上がり、暖かい日が続いている。公園の桜も一斉に花を咲かせて艶やかさを増している。自転車に乗った人や歩いている人は、コートを片手に持って過ぎ去っていく。春の佇まいはそこまで来た感じで、陽の光やそよ風が優しく頬を撫ぜる。気のせいか、各商店の看板が色鮮やかに輝いて見える。

 

 

 

 だが、そんな時節でも、木村康宏の心は憂鬱で景色を噛みしめる余裕がなかった。妻智子にどう別居を言い出せばいいのか。また言い出せば言い出したで、返ってくる答えも分かる。「それって、全てあなたの責任よ」。或いはこんな答えもあるだろう。「卑怯よ、自分だけ逃げるなんて卑怯よ」。

 

 

 しかし智子はそれを聞いたとき、一瞬の間があったがあっさりと言った。

 

「部屋はどうするの」

「それは、俺が出ていくよ」

 

 

 二人が住んでいる原宿のマンションは、結婚祝いの形で、智子の父親が購入資金のほとんどを出している。別居となると俺が出ていくのが当然と康宏は考えていた。更に康宏はこうなることを想定し、かなりランクは下がるが、東中野の賃貸マンションに目星をつけていた。それに「部屋はどうするの」という智子の言葉は、康宏にとって、ほっとした反面そこまで気持ちが乖離したのかと、距離を知らされた感じでもあった。

 

 

 

 

 二人が結婚したのは今から十年ほど前だったが、共に二十四歳になっていた。ところが数年前からシラッとした空気が漂い、関係が冷えている。別に何があった訳ではなく、激しいぶつかりもなく、日々を淡々と過ごして来たが、考え方の違いや感じ方のずれが積み重なり齟齬をきたしている。無理に合わせようとするとぎこちなさが出て、何かが壊れるような気がした。結婚前は気にしなかったが暮らし始めて解る感覚、異質に思える事柄が二人の気持ちを暗くさせていた。

 

 

 具体的には食べ物の好みや金銭感覚。時間の過ごし方。起床就寝の時間。テレビ番組等の嗜好。些細なことだが我慢しているうちに胃が痛くなってくる。また新しく親族になった智子の親戚のこともある。決して悪い人たちではないが、気が合う人種でなく考えるだけで康宏を暗くさせた。

 

 

 

 康宏と妻深沢智子が出会ったのは、入学したF大学の絵の同好会だった。会は別段画家を目指すものではなく、ただただ好きな絵を気ままな時間に描くという集団で、その年度の新入部員は康宏と中川恵司、後に中川と結婚する三枝美香子、美香子に引きずられて入った感じの智子、の四名だった。

 

それて、美香子と智子は同じ高校を卒業していて、康宏と中川は違った。

 

 

 

 また中川と美香子は、初対面の時点から気が合った感じで、半年もすると同棲を始めて卒業と同時に結婚している。そんな二人と付き合っている関係で、康宏も智子も自然に恋人気分になり、二人と遅れること二年で結婚した。だが康宏と智子には、相手を狂おしいほどに想う感情は生まれなかったし、記憶に刻みたい場面も現れなかった。もし絵の同好会が無かったら、もし美香子と智子が親友でなかったら、中川と美香子が結婚しなかったら、康宏が絵を嫌いだったら、素通りした関係かも知れない。

 

(つづく)