【短編小説】 「えんか」 ③ | 失語症作家 小島恒夫のリハビリ・ノート!!

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自ら作家と名乗る人間にろくな者はいないでしょう,他の方はともかく。私は2000年、脳出血を患い失語症になりました。そしてリハビリの一環として文章書きをしています、作家のように――。
何はともかく、よろしく!  (1941年生まれで、現在・80歳になる単なるじじい)

 

 

 

 

 

【短編小説】

「えんか」  ③

 

 

 

 

 母親のアドバイスもあって、智子は身体を動かす趣味を探しだした。さすがにクラシックバレーは止めてかなり時間が経つから、体力に自信が持てない。フラダンスなら気楽に踊れそうだ。智子はインターネットで良さそうな教室を見つけて通い出したが、元来運動神経が良いから上達は早かった。また智子は結婚を機に家庭に入ったが、実家の法人組織の役員をしていた関係で、夫の給料を当てにしなくても生活できた。

 

 

 

 

 別居が現実になると智子は、母親に電話をかけて経緯を伝えた。折り返し父親からも電話がかかり、父親は智子に未練があるのなら仕方がないが、無いのなら結論を急ぎなさいと諭した。更に康宏君はおとなしく真面目そうだが面白味に欠ける。智子にどうしたものかと思っていた。こうなることを望んでいた訳ではないが、子供が生まれず身軽な立場なら再出発も簡単に出来る。ぐずぐずせずに結論を出しなさいと念を押した。

 

 

 

 

 

 会社帰りの電車の中で、康宏は母親のことを思い出した。

 

 ――今夜こそ話そう、この時間なら起きている筈だ。この機を逸すると話すタイミングを失ってしまう。

 

 改札を後にしてスマホをかけると、母親は起きていた。一瞬の沈黙のあと、別居はお前が言ったのかそれとも智子さんと訊き、自分が決めたと答えると、更に続けた。

 

 

「それなら良く考えて、早い段階で答えを出して上げなさい。智子さんにも都合があるだろうからね。私はね、初めから康宏には合わないんじゃないかと思っていたよ。向こうはその積りじゃないだろうけど、何だか、何時も見下されたような気がして嫌だったよ。人には合う、合わないがあるからね。過ぎたことは忘れて先のことを考えるんだよ」

 

 

 

 

 一週間ほど経った日、康宏は頼んだ運送業者に来てもらい引っ越しをした。中川もラフなジャージーで駆けつけてきたが、智子と美香子は手伝うのもおかしな話なので、五歳になる中川夫妻の長男を連れて、一日ゆっくり遊べるテーマパークへ出かけた。大荷物は予め梱包しておいたので、エレベーターで下して小型トラックに載せた。共有の家具類は全て智子にあげることにして、康宏は本やパソコン、衣類に布団、小型のテーブルセット等簡単な荷物で、十年間ほど暮らした原宿のマンションを後にした。

 

 

 

 

 移った東中野のマンションは、六階建ての築十五年、豪華ではないがみすぼらしい建物でもなかった。部屋は最上階で見晴らしがすこぶるいい。晴れた日なら新宿の高層ビル群を縫って、神宮の森やはるか先の海が見えるかもしれない。階下を見ると、ちまちまとした木造住宅が軒を並べて、昔の佇まいを見せている。活気が満ちた原宿のマンションとは風景が違うし匂いが違った。

 

 

「意外に新宿が近いな。今度夫婦喧嘩したら泊りに来るよ」

「冗談言うなよ、ここはね、男の駆け込み寺じゃないよ」

「俺も別居したくなったな」

「子供はどうするの」

 

 

 

 一通り荷物を部屋に運び込むと、運送会社の社員は帰って行った。がらんとした部屋に荷物が雑然と置かれている。間取りは小さなダイニングキッチンに風呂とトイレ、四畳半の洋間に六畳の和室。一人で住むには十分過ぎる広さである。

 

 

「片付けは徐々にやってもらうとして、引っ越し祝いをやろうよ」

 中川が近くのコンビニから、缶ビールと乾き物のつまみを買ってきた。

「残りは俺一人でやるの」

「その方がいいよ。何をどこに仕舞うか俺には分からないものね」

 

 

 

 窓脇にテーブルセットを置くと、買って来た缶ビール類を広げた。ささやかだが引っ越しパーティーである。二人は缶ビールの栓を威勢よく抜くと、缶と缶を合わせてご苦労さんと乾杯した。康宏と中川の喉に冷たいビールの液体が流れ込むと、美味い。二人は目を細めて感嘆の声を上げたが、午後四時ちょっと手前だ。窓から五月のそよ風が気持ちよく入ってくる。康宏は一瞬これからどうなるのかと不安が募った。が、それを中川の声がかき消した。のんびりとした匂いが漂う。また地上の喧騒はここまで届かないから、全ての音が消滅して静止している。

 

 

 

 缶ビールを三本ほど飲み干したとき、中川のスマホが鳴った。美香子からの電話でそろそろ部屋へ帰ろうと思うが、そちらの進み具合はどうかと様子を訊いてきた。

(つづく)